☆ トレイルランニングの虚構性とトレイルランニング第二スポーツ論

・・・ここにトレイルランニングの虚構性は暴かれず、永続するわけであるが、私のような醒めた第三者からすれば、登山の本流からは異端で、大会依存性の強いトレイルランニングのブームは、宣伝広告によりシナリオ通りに作られた虚構性の強い世界であると認識される。(しかし、それに参加している競技者たちは、現実を直視しようとせず、仲間とともに住み心地のよい仮想現実に安住することを好むのである。彼らにとって、私のようにものを語ることは、トレイル仲間への裏切りであり、レース仲間から白い目で見られることを覚悟しなければならない。彼らは一種のカルトなのである。)

Ⅰ 異端性と大会への依存性

トレイルランという「やり方」が登山の一方法として一般的な通用性を備えているのならば、そういう「やり方」で、日本全国の山々を登れるわけであり、逆説的に言うならば、そういうやり方がわが国の登山の歴史において戦中、戦後の時代から既に試みられていて、登山の一ジャンルとして既に存在していた筈である。振り返ってみると、「軽装登山」、「カモシカ山行」なるスタイルは昔から存在した。とするならば、トレイルランニングとは、「軽装によるカモシカ山行」を現代的に言い直したものと理解するのが、長い登山の歴史において「トレイルランニング」がいわば私生児扱いされずに済む正当な理解の仕方であろう。

ところで、伝統的な登山の観点からすれば、軽装によるカモシカ山行は異端である。高校や大学の山岳部やWVに入部して、わずか数キロのナップサックや、デイパックを背負って、八ヶ岳や、南北アルプスをチョロチョロしてみようなどと新入部員に教えるところなどまず絶対あるまい。

こんな風に、トレイルランというやり方は、登山界に於いてはあくまでも異端である。それは、本来的な無理、ないし欠陥を抱えている。身体への負荷が高いことによる不慮の事故(TTR-100の事故)、転倒そのほかによる怪我や故障の発生可能性が高いこと(第15回日本山岳耐久レースでの死亡事故、そのほか捻挫や手足の負傷などは日常茶飯事である)、さらには軽装であるがゆえに装備に不備がなきにしもあらずなどなどである。

トレイルランという「やり方」が、大会とともに発展したのには、理由があって、サポートスタッフがいて、ルートのどこででもリタイアできる環境、給水所ほかエイドの設営といった極めて「人工的なバックアップ体制」の完備でもって、このトレイルランという「やり方」が抱えている本来的な無理(ないし欠陥)をカバー出来るからである。裏から言うならば、トレイルランという「やり方」が内包する脆弱な部位(本来的な無理、ないし欠陥)をフォローし、何とかうまい具合に参加選手に「(ゴールまで)走れる環境」を提供するというのがトレイルレース、トレイル大会であった、ということも出来るだろう。

それはあの、TJARにも当てはまる。街道沿いの自動販売機や、24時間営業のコンビ二、ファミレスから始まって、稜線には近代的なコンビニ並みの品揃えを誇る山小屋が建てられ(食堂まである・・笑)、一年のうちで最も天候が安定し、山小屋もそのほとんどが営業している夏山の時期に開催されることなど「人工的なバックアップ体制」はここに極まるのである。(いつかも書いたが、これがもし9月の半ばの開催となったら、山小屋も閉鎖しているところが増えるし、夜間の3000m級は冷える、駿河湾まで行き着けない選手は倍増するであろう。あるいは単に、現状のままでも自販機や、コンビニ、ファミレス、山小屋の食堂の利用禁止とするだけでも、ルート上での補給が著しく困難になって駿河湾まで行き着けなくなるはずである。)

であるから、ルート上に自販機や、24時間営業のコンビニ、ファミレス、ヘリコプターで消費資材を運びあげて一流ホテル並みの品揃えとサービスを完備する山小屋があってこそのTJARなのである。そして、このような「人工的なバックアップ体制」が整備されたのは、早ければ80年代後半、せいぜい90年代以降の話であろう。(であるから、たとえば昭和50年代には、今のような形でトランスジャパンすることは不可能ないし著しく困難であったはずである。)

それはまた、自転車のヒルクライム競技が、もともとは山林作業者のために開削された林道が林道行政の恩恵でもって無意味に舗装され、落石防止の金網までも敷設され、ロードレーサーで乗り入れてもパンクしなくなり、ロードレーサーでも不便なく走れるようになった段階でようやく開催されるようになったのに似ている。(ちなみに東京西部地区で各種林道の舗装化が進んだのも90年代以降である。)

このように、軽装によるカモシカ山行は異端であり、トレイルレース、トレイルの大会に出ている選手はみな(言葉は悪いが)主催者のバックアップ体制に深く依存している現状である。

Ⅱ 商業主義(コマーシャリズム)がもたらしたトレイルランニングの虚構性

登山の本流からは異端で、大会への依存性の強いトレイルランニングであるが、現代社会において、マスコミ、インターネットを上手に利用することでブームというものはある程度作り出すことが出来るのである。

有名新聞の読者投稿欄に、トレイルランニングの大会に遭遇したハイカーの厳しい意見が投稿されても、それとお構いなく、インターネットでは、トレイルランニングの宣伝広告が流されている。そして、それは人間の判断材料がインターネットに依存すればするほどに、ネット上の情報操作により、テレビや有名新聞といった大手マスコミの力を借りずとも可能となった。たとえば、あの石川弘樹選手も、鏑木毅選手も、大会とインターネットの宣伝広告媒体なくしては、今のような知名度は得られなかったであろう。

そして、大会主催者たちはそのネットの影響力を巧みに利用した。大会開催により得た収益を、そのような広告媒体につぎ込み流行を維持存続させる・・ということは、営利企業としての発想で大会を運営している彼らのやり方である。(いつかも書いたが大会主催者は営利企業としての発想で自己の主催する大会の宣伝広告その他を行っていると考えると、彼らの行動を無理なく合理的に説明できる。例のハセツネ30kの同日開催についても多摩地区におけるトレイル市場の独占と、業界スタンダード化を狙ってのことと解釈するのが無理がないのである。)

更に、インターネットでは、安価な費用で、狙った形の情報操作が容易である(要するに、ある程度自由に好き勝手なことが出来る)。その際、上に書いた大会への依存性は、大会に出場する選手こそがトレイルランナーであるとの観念を植え付けやすい。登山道は無数にあるというのに、何故か特定の大会に出るものだけがインターネットと年に数冊発行される雑誌といったメディア各種でもてはやされる、そのような選手を機軸にトレイルランニングの世界が意図的に構築されている。大会というクローズドの世界のなかの特定の選手たちが、このスポーツに関心を持っている第三者に与える影響など色々と計算尽くでもって、賞賛されていると言う訳である。

極論するならば、我々は「広告代理店によってインターネット上に作られたトレイルランニングという幻影」を見ているのではないか?そういう思いを強くする。

さらに、商業主義というのは、自己の存続のためには、事実を自分たちに都合のよいように歪曲し、流布せしめる。分かりやすく言えば、スポンサーが、その支援する選手を実力以上に持ち上げて宣伝広告することである。そうしたことが、過去、トレイルランニングの有名選手の宣伝と紹介においてなされていたと十分に考えられる。ブーム自体の仮装、虚構性、有名選手の実力の仮装、過度の宣伝広告というのは、トレイルランニングの虚構性の幾つかの例である。

Ⅲ シナリオライターの意向に沿ったインターネット上の仮想現実(matrix)の中にトレイルランナーは馴れ合って安住の地を見つける。

これは有名選手(ようするに、トレイルランニングで飯を食っている人)というのは、スポンサーの利害を代弁する口であると言うこと。そして、末端のトレイルランナーは、有名選手の影響を深く受けるから、有名選手をコントロールすることを通じて、シナリオライターは、トレイルランニングの世界をシナリオ通りにコントロールすることが可能となるわけである。トレイルランニングというのは、シナリオライターの意向に沿ってインターネット上に構築されたひとつの仮想現実(matrix)だと、表現できるだろう。

ただ、トレイルランニングがもし仮に仮想現実(matrix)だとしても、スポンサーとしては商品が売れればよいのだから一向に構わないし、大会主催者は、定員割れとならない限り毎年大会を開催することにより収入を得ることが出来るのでこれも一向に構わない。スポンサーと大会主催者によって育てあげられ、トレイルブームを通じて身銭を稼いでいる有名選手としては、その仮想現実(matrix)が一日でも長く続くことを希望するだろう。

また、参加する選手にとっても、現実を直視するよりも、スポンサーや大会主催者といったシナリオライターによって描き出された居心地のよい偽りの仮想現実(marix)に安住することを好むものが一人二人ではない(仲間との和を重視し、その仲間が多少あこぎなことをしていても目を瞑ってしまうのである、一種のカルト的な運命共同体である。)。トレイルランナーというのは、一人で物を考えず、レース仲間、ランニング仲間の動向に引きずられる生き物であるから、一人ではうすうす何かおかしいと気付きながらも、同好の士がいるので、なんか分からないけれどまぁいいわい、と友情を重んじるあまり自分の頭で考えることを放棄してしまうのである。

ここにトレイルランニングの虚構性は暴かれず、永続するわけであるが、私のような醒めた第三者からすれば、登山の本流からは異端で、大会依存性の強いトレイルランニングのブームは、宣伝広告によりシナリオ通りに作られた虚構性の強い世界であると認識される。(しかし、それに参加している競技者たちは、現実を直視しようとせず、仲間とともに住み心地のよい仮想現実に安住することを好むのである。彼らにとって、私のようにものを語ることは、トレイル仲間への裏切りであり、レース仲間から白い目で見られることを覚悟しなければならない。彼らは一種のカルトなのである。)

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終わりに、・・トレイルランニング第二スポーツ論

桑原武夫の著書に、現代俳句を批判した第二芸術論があるが、それに模して考えてみよう・・。

①わが国のトップレベルの一流アスリートが選手として参加しているか?
②政府が覇権や国家の威信を持って取り組んでいるスポーツか?
③オリンピックとか、世界選手権といった世界規模の競技大会があるか?

陸上競技は以上の三つの要件をすべて満たす。ところが、トレイルランニングはこれらの要件を満たさない、その点で、トレイルランニングは、陸上競技をいわば「第一スポーツ」を評するならば、「第二スポーツ」であると評せられよう。

トレイルランニングの主催者と著名選手、及び有力スポンサーの相関図

石川弘樹氏が、独自路線でハセツネCUPの系列や影響力を離れつつあるのは明確であるが、群馬のトレイルランナーを中心とするTEAM EASTWIND系の選手達は、何らかの形でいまだハセツネCUPの影響下にあると考えられる。

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