匿名社会とトムラウシ山岳遭難について、

・・・このように事故が起こった後も基本的にバラバラだとしたら、多分、事故当日も参加者各自は今現在以上にバラバラだったのではないでしょうか??そう推察するのも無理がないかなと考えています。 つまり、ツアー参加者に欠けていたのは、体力はもとより、「一致協力する精神」や「相互の助け合いの精神」さえも欠けていたのではなかったか?と思えるようになってきました。

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24 トムラウシ分岐~母体はガイド協会(後の2)、25 ガイド行方不明時の社長の発言(再考トムラウシ遭難)、

24 トムラウシ分岐~母体はガイド協会(後の2)、
25 ガイド行方不明時の社長の発言(再考トムラウシ遭難)、

戸田さまよりいただきました二つのmail記事です。

24 トムラウシ分岐~母体はガイド協会(後の2) ( 4月24日付けmail )

こんにちは 掲載してくださるようにお願いします。

「トムラウシ分岐~母体はガイド協会(後)」で、私に対するマイナスイメージの貼り付けの目的は、私がMガイドのイメージ回復の最大の障害になっているからだとした。ここのところを少し訂正します。Mガイドのイメージアップに収斂したりしないほうが妥当だと思う。端的に会社のイメージ回復に必要だからと考えるべきで、そのように訂正することにします。

私の存在、私の証言が会社のイメージアップの障害になっているので、私にマイナスイメージを貼り付けて私の信頼性を傷つけ、大衆に私の証言は信用できないと思わせるということだと思う。「ジャマッケ、オシャベリ、チョウシヅキヤガル」。大衆は「のどもと過ぎれば熱さを忘れる」のに、何度も何度も私がマスコミに登場するので、営業妨害だと思っていたのかもしれない。

会社は私が「弊社の認識内容」をマスコミに流し、「コメント」で批判したこと、それをもとに会社がマスコミに追及されたこと、弁明ができなかったことは、私は現場に居合わせていないのでわからないが会社にとっては相当なショックだったのだろうと思う。社長が文書の回収に回ったというのだから。(私に言わせれば「弊社の認識内容」は手続き的にも内容的にも穴だらけだったんだと思う)

私とマスコミを切り離すこと、そのために私に対してマイナスイメージを貼り付けること、こんなことが考えられたのだろう。会社は表立っては反論ができないので相当ストレスがたまっていたかもしれない。一方的なバッシングと思っていたのではないか。私にたたかれるだけだと思っていたのだろうか。(そんなことをいわれても)

「行動概要」の作者がどうして会社のイメージアップに関係してくるのかはわからない。「弊社の認識内容」を作った人が誰かはわかっていない。「弊社の認識内容」は会社にとっても重要な文書だから、会社が頼みにする人に依頼したということが考えられる。両者の関係もわからない。

「行動概要」の作者はなぜあのようのことをしたのか。山渓記載の参加者の証言(「戸田さん、長田さん、ヒ品さんが追い越していった」)から「私が追い越していった」ことだけをことさらに書くのだ。また私とOさん(女性客A)は二人で女性客Lさんのサポートをしていたのであり、そしてKさんが転んで立ち上がれなくなったので私がLさんを、OさんがKさんを担当することになったのである。共同の行為だからそのことに触れるには私のことを切り離すことができないはずである。Oさんが私のことを無視した証言をするはずがない。それなのに「行動概要」の作者はOさんの証言を切り刻んで組み立てたと思われるOさんの証言なるもので、私の存在を抹消した。またトムラウシ分岐からずっと私はOさんと一緒にいたと読める記載があるのだ(P17~18)そのほかに私に対する記載は私が訂正を求めなければならないほどのものであった。(Mガイドを「怒鳴りつけながら」とあった。その他)

一方でMガイドのプラスイメージを作り出そうとしている「風の息」「耐風姿勢」。マイナスイメージを糊塗しようとしている(トムラウシ分岐でのMガイドの行為の説明)

「行動概要」の描こうとした私のイメージは「大声を出してガイドを混乱させ、客としての権利ばかり主張してガイドに命令し、怒鳴りつけ、参加者を助けない身勝手で冷淡な客」である。

以上詳細は「トムラウシ分岐~母体はガイド協会(前)(後)」を見ていただきたい。私は「行動概要」の作者が私に対してマイナスイメージを貼り付け、Mガイドにはプラスイメージを作出していると思っている。それは会社のイメージ回復のために必要だからだと思う。では「行動概要」の作者はなぜ会社のイメージアップに尽力するのか、その動機は推測するしかない。

私は参加者のうちで早くから、多くを語ってきたがそれほどのことをしたという自覚はない。サブエイトでは質問者の問いに答えただけである。マスコミの取材には私は断らないことに決めていた。亡くなった人にたいするせめてもの義務だと思ったからである。

わたしは事実だけを語ってきただけである。もちろん誤解していたこと、思い込みだったこともある。(その場合はその旨をいい訂正したはずである)正直いって同じことばかりしゃべるつらさには閉口した。時間的にも長い期間どこにも行く気になれなかった。亡くなった人のことを考えるならばと思ってきた。しかし苦々しく思ってきた人がいたのだと思う。会社は文句を言いたかったのだろう。会社にはボディブローのように効いたのだろう。私はそんなことは考えていなかった。会社は営業を続けるために私につけられたと思っているイメージを取り除きたいのだろう。しかしそのイメージは私がつけたものではない。会社自体が作り出したものであろう。

中間報告書「行動概要」によって私のイメージは一定程度傷ついたのだと思う。「行動概要」が描いた私のイメージを見て、私はとにかく混乱した。孤立感を感じた。苦しかった。私がそれまで話したことが全部「ガセネタ」だといわれているように感じた。マスコミの取材も少なくなったのかも知れない。私はその点に関しては却って歓迎だけれど。それにマスコミに話すことはもうないのだから。その辺りはよくわからない。しかしやはり信頼性は失われたのだと思う。一番つらかったことは今まで私が話したこと全部が疑わしいと思われることだった。「行動概要」は目的を達したのだと思う。

会社の信頼回復の道はそういうことではあるまいと思う。

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ガイド行方不明時の社長の発言(再考トムラウシ遭難) ( 4月27日付け mail )

こんにちは お世話になります。掲載のことよろしくお願いします。

前トム平下で、O(女性客A)さんはMガイドに「あんたガイドなんだから倒れていないで、まずは警察に電話して!そして、上の方で弱っている4人の女性たちのために、あんたの持っているテントを張ってあげて」と言ったという(報告書P17)。(私はOさんの発言、その後のMガイドの携帯電話操作が終わってから現場に着いたので、テントのことはずっと後で知った)

Oさんが前トム平で待機していたのは、テントを上に上げることを考えて迷っていたからのようだ。H(男性客F)さんが下りてきたので、OさんはHさんに「上の女性たちのところへ戻ろうか、それとも下ろうか思案している」と告げたという(同P18)。これはテントがあることを知って、テントを持っていってあげたいと思ったということのだろう。

OさんがMガイドに「上で弱っている4人の女性のために、あんたの持っているテントを張ってあげて」と言ったことは、下山後警察に伝えられたと思われる。そして警察から社長に伝えられたであろう。Mガイドが最後の行方不明者になったときに、社長は「Mガイドは上へ救援に向かったのだろう」と発言している。社長のこの発言はOさんがMガイドにたいしてした発言を踏まえていたのだと思われる。行方不明と聞いて、Oさんの発言を思い浮かべて、Mガイドは救援に向かったのだと考えたということだろう。

あらためて報告書を読んで、そういう背景があったのだと気づいた。Oさんはマスコミにでないから、報告書が出るまでは警察関係を通じてしかわからない。

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PDFデータ

24 トムラウシ分岐~母体はガイド協会(後の2)、25 ガイド行方不明時の社長の発言(再考トムラウシ遭難)、

⑲ 風の息 風向きに向かってかがめは間違い、⑳ デットエアーの必要 トムラウシ遭難、21 自己責任と他人のための救援要請、22 トムラウシ分岐~母体はガイド協会(前)、23 トムラウシ分岐~母体はガイド協会(後)、

引き続き、戸田新介さまからこちらで公開するように送っていただきました五つのmailを、ここに公開いたします。
PDFデータは記事の一番下にありますので、ご自由にダウンロードして、プリントアウトなさってみてください。

4月23日(FRI)  silvaplauna

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⑯ 山渓5月号が出ました、⑰ トムラウシ救援要請のあり方、⑱ 盲従、

⑯ 山渓5月号が出ました ( 4月16日付け mail )

おはようございます。

山と渓谷5月号が送られてきました。私の記述に関しても触れられているので、その関係としてだろうと思います。
「トムラウシ山大量遭難 2つの報告書が語るもの」として羽根田治氏が調査報告書の方を、野村仁氏がシンポジウムのほうを担当して書かれています。おのおの2ページの記事です。

私の「私の記録」について野村氏は「青山氏の指導のもと、時系列に分けた表に、記憶・経験をすべて書き並べた。正確な事実の記録だけでなく、事実と食い違う部分、ほかの証言と異なる部分、記憶が不確かな部分も、すべてに本人だけが経験した重要な意味がこめられている。ツアー参加者全員が生死の限界点に立たされ、ギリギリの行動であったことがわかる。」(全文)と書かれている。

「青山千彰氏に聞く」として青山代表の話がある。「トムラウシ ワーキンググループはその後もメーリングリストで活動を続けているが、おもしろいことに、シンポジウム以後は、意見交流が非常に活発となっている。~内容的には法的解釈、組織論、リスク論、自己責任、環境庁の管理責任問題など多岐にわたっており、シンポジウム以上の成果となっている。できれば、活動成果を本にまとめていくことを考えている。」とあります。

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⑰ トムラウシ救援要請のあり方 ( 4月17日付けmail )

おはようございます いつもお世話になっています。掲載してください。
山の遭難のときの救援要請のあり方については、感情的な議論が多すぎると思います。

①一方では山は自己責任だから救援は必要ない。
②他方では救援を要請したのになぜ出動されなかったかというのがある。これは遺族から裁判で主張される。そしてこれに対して第三者が①の立場から山は自己責任だから、救援する義務はない、救援はいわば感謝すべきもので文句を言うのがおかしいと主張され、ネットで裁判を起こした遺族に対してパッシングが行われる。

救援隊の立場からは安易な救援要請が多すぎるとだけ主張され、救援が必要なら早く救援要請をしてほしいということは言われていない。そして遺族からの裁判を考えて防衛体制に入り、救援要請がなければ安堵するということだけを考えているように見える。救援要請がなければ救援隊が遺族から問題にされることはないからである。

私は救援が必要ならば、あまねく行政サービスとして救援の手が差し伸べられるようにするのが建前、理想で、行政はこれを希求するものだと思ってきました。予算が伴うものだから、ポリシーとか優先順位とか仕分けの問題があるから建前どうりに行かないということはあります。しかしそれはやむをえない事情でできないというものであって、しなくてもよいということではないと思う。また制度があるのに利用してはならないというものでもないと思う。

救急車の出動については、安易な119番通報がある。しかし真に必要ならば早く通報しなければならないということは常識になっている。一刻を争うとして。
そして救急車の出動が必要かどうかがわからないときがある。この旨を言うと、担当者はそのセクションに電話を回してくれて、事情を聞いて対策を教えてくれ、様子を見てそれでも直らないならまた電話してくださいといってくれる。山でも同じようなことがあると思う。電話をまわしてくれればいいのだ。いろいろな対策も教えてくれればよいのだと思う。(そういうことはツアー会社も自らするべきだったということはあると思います。衛星携帯を持たせて本部で24時間待機すればいいのだ。しかし行政としても考えるべきだと思う。)

救援隊関係者が「安易な救援が多すぎる」ということだけを言わないでほしい。「必要な場合は早く救援要請をしなければならない」ということとセットで言うべきである。救援隊関係者は遅れた救援要請や、されなかった救援要請ということにも関心を持ってほしい。救援の必要があるところに、行政サービスとして救援の手が差し伸べられるようにするというのが本来行政が目指すものだからである。

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⑱ 盲従 ( 4月17日付けmail )

おはようございます お世話になり、感謝しています。掲載してください。

神戸シンポジウム中の「私の記録」には、引用先の記載のない証言がありますが、これは警察が私に裏を取るために示した他の参加者の証言です。もちろん生還者で、そのうちの誰かが言っているのだと思います。参考にはなると思います。

その中にこのままでは「遭難するのではと思ったが、ガイドさんがいるから安心だと思った」「安心させた」というのがいくつかあります。この感覚が私にはわかりません。冗談ではないと思っています。しかし女性にはこうした感覚が普通なのではないでしょうか。子供のころからの、また家庭を持ってからも、だれかにすがるというのが女性のライフスタイルなのではないでしょうか。男性でも単独行などの経験が浅い人に認められると思います。

そして危機に直面すればするほど何かにすがるというのが不安を鎮めるひとつのやり方だと思います。戦争を引き起こして求心力を高めるというのが政治のやり方であるといいますから、そうした心理は人間に普遍的であろうと思います。盲従というのだそうです。危機になればなるほど盲従することになります。危機になればなるほどガイドにすがるのだと思います。(シンポジウム青山論文P34参照)

今回も参加者は女性が3分の2を占めています。(そして亡くなった人の多くが女性だった。)女性を除いてツアー登山は考えれないと思います。女性がツアー登山を利用する主なる目的はガイドによって安全を確保されることを期待しているのです。2009年の夏は北アルプスでは、トムラウシ遭難の影響からかえってツアー登山参加者が増えたといいます。

自立した登山者であることを求めるといわれているが難しいと思います。ガイドもそんなことはわかっていると思います。後になって自立していないのが悪いといって、ガイドの責任転嫁の理由にしないでほしい。多数の「自立していない」参加者を抱えてきているのは「想定の範囲」だから、ガイドはそれを考慮に入れてガイディングをしなければならない。これは当然のことです。それがガイドにとって難しいのならば企画を変えるべきです。

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PDFデータ

⑯ 山渓5月号が出ました、⑰ トムラウシ救援要請のあり方、⑱ 盲従、

⑪ イデオロギーとしての自己責任論、⑫ ツアー参加者について、⑬ トムラウシ遭難と自己責任論、⑭ 前トム平にヘリの着陸は可能では、⑮ なぞの続き、

⑪ イデオロギーとしての自己責任論 (4月11日付け mail)

おはようございます いつもお世話になります。掲載してください。

自己責任論は多様に唱えられています。イラク人質自己責任論、ホームレス自己責任論、派遣切り自己責任論、ワーキングプアー自己責任論、過労死自己責任論、投資自己責任論、いまどき家の鍵は2つ以上つけるべきで、それを怠って強盗に入られても自業自得であるという自己責任論(警察の怠慢ではない)、老後は民間の保険に入っておくべきであるという自己責任論など。

JR福知山線事故の被害マンションの住民に対する自己責任論(マンションが線路のカーブという危険な場所にあったのが悪いから、住民が損害の全部または一部を負担するべきだ)。(wikipedia参照)

ネットのサイトには何百万とある。自己責任論、登山自己責任論その他が。

登山の自己責任論では①行政サービスをなすべきかということがある。雪山で遭難したのは自己責任で行ったのだから救援をしないでよい、または費用を負担するべきである。②私人間の関係でいわれることがある。登山は自己責任だからガイドは面倒を見なくてもよい、ガイド、会社に責任はない。
トムラウシ山遭難事故では②が問題になっているのだと思う。

●いわゆる自己責任論は事故が起こってもその責任を他人に転嫁してはならないという主義主張(イデオロギー)または心構えだと思います。法的な責任ではないと思います。債務者(ガイド、会社)が法的注意義務を負うとしても、最終的には自分の命は自分で守るしかない、ガイドや会社の責任を追及してみても、失った命は返らないというのなら私はそのとおりだと思います。(心構え)

問題はガイド、会社に自己責任を理由にして法的責任がないとされることにあると思います。自己責任にそこまでの意味を含めていいのだろうかと思います。ガイド、会社に注意義務が有るかないかを先に考えるべきで、参加者の自己責任だからガイドの注意義務はないということではなく、ガイドに注意義務がないから自己責任でやるしかないとなるのだと思う。。

要するにガイド、会社は自分の注意義務違反の責任を参加者の自己責任違反を理由に免れるわけではないと思います。注意義務がないとされれば免れるが、それは当然のことです。山ではガイドの注意義務はどこまで及ぶか、今回の事故ではガイドと会社の注意義務がどこまで及ぶかを考えるべきで、自己責任論を持ち出すべきではないと思います。

●債権者(参加者)の過失および不可抗力の場合は債務者(ガイド、会社)に法的責任はありません。債権者の過失と債務者の過失が競合するときは過失相殺となります。つまり債権者の過失は法的な意味を持っています。債権者の過失にはいわゆる自己責任という言葉は使いません。

●いわゆる自己責任と債権者の過失は混同をしてはならないと思います。そして自己責任を言うときは参加者の法的な義務を言うのではないことをはっきりさせておくべきです。なお参加者に自己責任にもとる行為があって、それが法的意味においても過失があるといえる場合ならば債権者の過失という言葉を使うべきです。

●「全員が参加基準をクリアしていたが、悪天候下の経験と体力が不足していた人がいた。」(調査報告書)これが自己責任の問題なのか、それとも債権者(参加者)の過失になるのかがはっきりさせないで述べられているので、問題があると思います。自己責任の問題なら登山に限らずあらゆる危難に対処しておくべきだということがいえます。それについては誰も問題にしないと思います。債権者の過失という意味でいっているのならば議論があると思います。(会社が参加基準を厳しくすればよいことだから参加者の過失とはいえないと思います。参加者に悪天候下の経験と体力がないからガイドに責任がないまたは責任が減ぜられるとはいえないと思います。ただし他の考えもあるかもしれません。)

●単独行登山の場合は自己責任であるといわれるが、これは法的責任ではありません。法的責任を負う人がいなければ自己責任が出てくるということです。それは登山に限らないと思います。自分のことは自分でするという自己責任に、他の人が負う法的責任をペタペタと貼り付けて社会が成り立っているのだと思います。

自己責任論は盛んに言われているのでこの際きちんとした整理をしたほうがよいと思います。自己責任論は政治的、社会的に、つまり非法律的に(イデオロギーとして)使われているので整理したほうがよいと思います。

私は今までこのように考えてきました。

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⑫ ツアー参加者について (4月12日付け mail)

こんばんは 掲載おねがいします。

ツアー登山参加者に対しては、パーティのメンバーとしてあるまじき実態が言われ、問題視されています。そして特別委員会の報告書では「ツアー登山といえども登山であり参加者にパーティのメンバーとしての自覚を促す必要がある。」と主張している。

『ほとんどのお客さんは、あくまで「客」として来ている意識の人が多く、知らない人の寄せ集めであり、会社に連れて行ってもらっている、という意識は明らかにあります。お互いの結びつきもない、単なる集合体であり、それはパーティとは呼べず、個々が個々のために歩いているだけのことであり、会社側もその結びつきに対してどうのこうのは言いません。』(シンポジウム 山形昌広氏 3枚目の最後)私が今回のツアー登山で北沼分岐につくまでの姿はまさに「個々が個々のために歩いているだけ」であると思います。(私の記録P9~12参照)

「最近増えている募集登山やツアー登山の危険性のひとつは、山岳会の山行であれば通常得られる他の会員からの経験、技術、情報の伝達や、山行中の援助、補助をうけることがなく山行が実施されるという点です。そこでは、参加者相互の援助協力関係を期待できず、引率者と参加者の間の直接的な援助関係しかないので、それが不十分な場合には直ちに事故に直結する危険があります。また、営業的ツアー登山では、遭難事故が起こっても救助活動を引率者にまかせ、他の参加者は先に帰宅することが多いと思われ十分な救助活動を期待できません。」(溝手靖史 登山の法律学P144)

「仲間同士の登山では、原則としてリーダーに参加者に対する安全配慮義務が生じないとしても、参加者相互の間に委任契約、準委任契約もしくはそれに類似した契約関係があると考えられ、それによって一定の義務が発生します。」(同P49)その一定の義務として「互いに援助協力するよう努める義務」があげられている。「パーティは参加者が互いに援助協力することを目的として結成されるので、この義務は当然のことです」(しかし「これは努力義務であり、これに違反したからといって法的責任は生じません。」ともいわれている。)(同P50)

ツアー登山では参加者相互の間に委任契約、準委任契約もしくはそれに類似した契約関係があるのだろうか。これについて溝手氏ははっきり述べられていません。私は次のように考えます。
仲間同士の登山ではパーティを組んで登山しようとすること自体に委任契約締結の意思を認めるのだと思う。仲間同士はそれこそ自己責任で山に行くのだから、リーダーをはじめとした役割分担を決め、準備し、どこへ行くか、天気は、地図は、交通手段は、何が必要か、時間管理、場所確認すべて自己責任でやるしかない。そこにおのずと互いの間の委任関係ができるのだと思う。

しかしツアー登山ではガイドという圧倒的に優越した権限と義務と能力を持った(あるいは持つと期待された)人があらかじめ決められているのである。参加者の出る幕はほとんどないと思います。むしろ参加者が口を挟まないほうがスムーズに行くのだと思います。(要らんことを言うな)コミュニケーションについてもガイドの優越的地位があるので、参加者は参加者相互の間にはあまり必要ではないと思っていると思います。たとえ一人がこれではいけないと思って努力してみても、参加者全体がそう思っている以上どうしようもないと思います。

参加者相互の間には委任関係を認めることはできないと思います。ガイドという優越的存在が独占するので、参加者のするべき任務がないから、パーティのメンバーであるという自覚はできないと思います。そういう実態を踏まえて意思解釈をするのだから委任関係を認定することはできないと思います。ツアー登山参加者に共通する行状からもそう思います。つまりこうするべきだというところから解釈をしてはならないのであって、当事者がどうすると思っているのかという意思の推測によって解釈をするのだと思います。だから委任関係はない。ゆえに互いに援助協力する義務は(それが努力義務にすぎないとしても)ないと思います。あるとすればそれこそ道徳的な困っている人を助けてあげたいという気持ちだけだと思います。この辺りのことは別の見解があるかと思いますが、委任関係はないと思います。

私について言えばおよそ他の参加者と協力して積極的に何かをなすということは考えてもいなかった。万が一に備えて常々協力しておくんだといわれても、違和感を覚える。ガイドのやっていることを一部引き受けるのだろうか。ガイドに何か協力することがありますかと申し出るのだろうか。110番をガイドの変わりに引き受けるということはあったと思います。しかしガイドが決めるのだから、ガイドから依頼されてからでしょう。私の考えていることはむしろガイドに対して、他の参加者の意見や状態を言って対策を求めることです。ガイドは仲間のリーダーという感じではない。仲間のリーダーだったら、リダーに協力すると思う。仕事で来ている人とお客は違うと思う。ガイドが「お客様だ」というなら、参加者は「仕事だろう、プロだろう」ということです。(なお他の生還者とはいままで連絡は取っていません。取りたい、聞きたいと思っていますが、相手にまかしています。連絡はありません。ツアーの場合はその場限りのものだから、そういうものです。)

そしてツアー登山の参加者の行状は、ツアー登山という制度自体からくるのであって、ツアー登山をやる以上は常に出てくると思います。メンバーとしての意識を持たせるといっても不可能だと思います。コミュニケーションを持てといってもできないと思います。制度自体からくる問題だから制度自体を変えないとできないと思います。個々の参加者の質の問題ではないと思います。個々の参加者を非難しても始まらないと思います。ツアー登山者に対してはいろいろな要望が言われている。(調査報告書P47)しかし私はツアー登山の制度を変えないとできないと思います。調査委員会の人たちもそう思っていると思いますがどうでしょう。会社のほうは形式的に色々いうだろうけれど、形骸化するだろうとおもいます。

ツアー登山も登山であるからといわれている。しかしツアーであるということもいえると思います。法的な意味において旅行と登山に質的な違いがあるわけではないと思います。違いはガイドがいるのか、仲間だけなのかの違いだと思います。ツアー旅行もツアー登山も同じだと思います。仲間だけの旅行と仲間だけの登山は同じです。存在が意識を規定するのだから、ツアー登山の参加者が客意識を持つのは仕方がないと思います。それは制度としてのツアーの問題だと思います。登山だからといって参加者としての意識の質的な変化ができるわけではないと思います。

私としてはなぜこれほどの非難がされるのかがよくわからない。わからないのはパーティの経験がないからだと思う。私は普通のツアー登山者として行動してきたつもりであるが、それが非難の的になっているように思います。少しおかしい、何かおかしいと思う。私はもうツアー登山は利用したくないと思います。こんなことを言われるのでごめんこうむりたいと思います。ツアー登山の参加者を批判する人はツアー登山を利用したいとは思わないようである。それはツアー登山自体がおかしいと思っているからだと思います。自分が参加したとしても他の参加者とコミュニケーションをとったり、見ず知らずの参加者と協力関係を作ったりできる自信がないのだろうと思います。「ばらばらの登山者」である自分を発見するだけだと思います。そういう自分を見たくないのだと思います。

新しいツアー参加者がどんどん出てくるのは避けられないと思います。需要が有る以上避けられないでしょう。そしてツアー登山は禁止せよと悲憤慷慨すればいいでしょう。なお昨年の北アルプスでは事故の影響でかえってツアー登山客が増えたといいます。不思議なものです。

私がツアー登山の客の立場から抜け出そうとしたのは北沼分岐で一人の参加者の危機を見たからである。しかしそれはすでに遅かったのだと思う。何もできなかった。一部の人からは要らんことをしたと恨まれている。私もよくわからない。また私がマスコミなどにしゃべったことに対しても、登山ではリーダーを非難しないのが鉄則である、登山は自己責任でやるべきで、他人を非難するべきではないという意見がある。

最後にツアー登山のあるべき姿は企画じたいにあるのだとおもいます。ガイドのミスを織り込んだ計画だけをやればいいのです。ガイドが天候判断をミスすると瓦解するような計画は立てないことだと思います。「天候やガイドの能力に関係なく、安全性を確保できるように設計、企画すべきである。」(シンポジウム 溝手P70) スワンさんも同じようなこと言っている。他の会社が安全性の問題から手を引いたところにまで、手を広げすぎたのだと思います。

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⑬ トムラウシ遭難と自己責任論 (4月13日付け mail )

おはようございます お世話になっています。 掲載お願いします。

自己責任は近代私法の原則の一つとされているので、市民革命のときのブルジャージーの主義主張だったのだと思う。レッセ・フェールとも関連するのだと思う。欧米ではいろいろなイデオロギーがスローガンとして時々持ち出してきたそうだ。これが日本で広く使われるようになったのは、ネットでみんなが使い出したからだとされる。10年ぐらい前からみんなが多用するようになったという。パソコンが普及し、ネットにつながれ、みながブログに使い出したのだという。まず2チャンネルで使われ、それが一般のブログに、さらにネット以外にまであっという間に広まっていったのだそうです。2004年のイラク人質事件では小泉首相が自己責任を唱え大衆の支持を得た。2004年流行語大賞になったそうである。小泉首相はこれで反対勢力を葬り去ったという。いまではネットで書き込みの際にはこの呪文を唱えることが約束となったという。(自己責任で見てください。)

自分のことは自分で始末をつけろ。自分でまいた種は自分で片をつけろ。このように他人に対して攻撃する言葉として多用される。交通事故もそこにいるほうが悪いんだ。外に出る以上事故の危険を覚悟するべきで自己責任だ。さらには子供が自己責任で宿題をやらないと決めたから文句を言わないでというそうだ。自己責任で高山植物保護のためのロープの中に入りますという人がいるそうだ。自己責任で強盗します!自己責任で覚せい剤をやっています?

これほどにも恣意的に使えるタームは、2チャンネルの愛用者には便利だったんだ、それで飛びついたのだろう。そしてそこからみんなが使い出した。ネットの書き込みには非常に便利だと思う。匿名の人間が無責任なことを理屈づけて言うにはぴったりだ。屁理屈をカムフラージュして、相手を困惑させて言いたいことを言うのだ。冗談として使うべき言葉になっていると思う。だからこの言葉はまじめな議論では警戒してかからねばならないと思う。背後には何があるのかを分析するべきである。この言葉が使われる前はどういう言葉で言われていたかを考えるべきだと思う。またまじめな議論ではあまり使うべきではないと思う。詭弁。

なぜ登山に自己責任論が使われるのだろう。

①他人が、雪山などの遭難には救援隊を出すべきでないという場合。自己責任で行ったのだから、行政サービスはいらないというのである。

②単独登山者や仲間だけで行く登山者が自分たちの自戒として自分のことは自分でするという場合。これはあたりまえのことで、10年ほど前は自己責任という言葉を使わないでやってきたことである。自分たちでやるしかないのだからいちいち自己責任を持ち出す必要はないと思う。ヒマラヤに登る人が自己責任を言っているが、誰もいないのだから死にたくなければ自分でやるのは当たり前でないか。自己責任という言葉がなかったときも同じである。いちいち登山は自己責任だと言って他人に心理的圧力をかけることはないと思う。自戒だとしても他人にはお前は自己責任がないから登るなと聞こえると思う。年寄りは来るなという意味が出てくる。自己責任をいちいち言わないでほしい。山は危険だということを言うのはいいと思うが、それだけでいいと思う。
遭難した場合は、単独行だと最後まで救援依頼をしない人が多いのだと思う。自分のためだと自己責任の考えから躊躇するけれど、他人のためなら救援を依頼するというのは自己責任に反しないと考えるのではないだろうか。組織登山者の場合は自ら救援隊を組織して行くことになっている。これも昔からやってきたことで自己責任を持ち出すまでもないと思う。

③救援隊関係者が安易な救援要請が多いとして自己責任を強調する場合。安易なのはまずいと思う。しかし、自己責任を強調すればがんばりすぎてかえって大きなことになってしまうことがあるがこれは問題にしなくていいようである。救援隊としてはとにかく救援の依頼がないほうがいいのであって、事故の犠牲の多寡は問題ではないのだろう。目の前に現れねばいいのだ。

④参加者は自分にミスがあるときには、自己責任を問われたくないのでミスを隠そうとする。自己責任をガタガタ言われるくらいなら、自分で我慢すれば無事に切り抜けられると思って、結局二進も三進も行かなくなって、それでも我慢してついに動けなくなってしまい皆に知られるところになる。だから自己責任は事前に啓蒙的にのみ言うべきではないか。事後(登山が始まったら)には自己責任を言うのはまずいと思う。事後にはむしろミスを言い出しやすいようにするべきだと思う。

⑤ツアー登山の場合 ガイド、会社から参加者に対して弁明としての自己責任論。参加者がまともな準備をしなかったことが悪い自己責任論。ガイドがミスをしてもそれに対処しておくべきだった自己責任論。こういう会社または企画を信じて申し込んだのが悪い自己責任論。4つ星の基準を満たしたとしても、悪天候のために6つ星になることもあることを覚悟するべきで、それに耐える体力がないのが悪い自己責任論。自分で防寒具を着たり食事を取るべきだった自己責任論。低体温症で判断が鈍っていたとしても、低体温症でそうなることを覚悟しておくべきだった自己責任論。ガイドがいるので自分を安心させたとしてもガイドは万能ではない自己責任論。黙って死んだとしてもそれは自己責任で死んでいったのだからガイドを批判するのは亡くなった人の意思ではない自己責任論。

ツアーの参加者の過失によって事故が起こってもガイドに責任はないが、それは債権者の過失は債務者に責めはないからであって、自己責任を持ち出す必要はない。安易な参加者がいるので自己責任を強調するのだという。登山で準備行為はそれこそ自己責任だからわざわざ言われなくてもいいのではないか。安易であろうとなかろうとそれも自己責任だと思うが。自立した登山者であるためにというがそれも自己責任ではないか。自立していないために事故が起こったとしたらそれも自己責任だといえばいいのでは。誰かに言われんでもいいはず。自己責任を教えること自体が自己責任に反すると思う。自分でやればいいはずだから。雪山入山に際して警察が届出制をしたりするのと同じ考え方である。

32歳ガイドが救援を遅らせた理由がいまだに明らかにされていない。私の仮説(思いつき)はこのガイドは自己責任にとらわれていたので、自分で何とかしようとして時間を使い、遅くなったという仮説です。

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⑭ 前トム平にヘリの着陸は可能では ( 4月14日付け mail )

こんにちは お世話になります。掲載してください。

遭難事故の10日前に救援のための夜間登山があったといわれていますが、今回はなぜ夜間登山がされなかったか、理由は明らかになっていません。マスコミが追及しないからですが、追及しても答えるかどうかは疑わしいと思います。やはり詳細な情報を入れなかったからだと思います。第一報は110番しただけのようです。第一報としてMガイドがどういうことを伝えたのか、これもわかっていません。ポーターと言うばかりだったということは伝えられていますが。救援要請の趣旨が入っていたのはわかりますが、どういう内容だったかはわかっていません。これがわからないと警察の対処の適否は判断できないと思います。

警察はいつものようにしただけと仮定すれば、やはりMガイドの伝えた内容が不十分だったのだろうと思います。Mガイドは110番をかけている間に電池切れのため、MEさんに「電話を出しなさい」といわれて自分の携帯を出して電話をかけたというけれど、「空うち」だったという。彼はしゃべることはできるが電話をかけることはできなかったようです。これが4時ごろです。5時ごろにはOさんが降りてきて、Mガイドを見つけて「私の前で電話をかけなさいよ」といって、かけさせたという。しかしこれも「空うち」だという。Oさんもすっかり「だまされた」ようです。(なお私は前トム平の上あたりで、Oさんに先に行ってもらっていたので、Mガイドが電話をかけているのは見ていません。調査報告書はこのところは間違っています。私が降りてきたときはMガイドは座っていて、Oさんのほうを見ていただけです。私は彼の携帯は見なかった。)

Mガイドがいたところはヘリコプターが着陸できそうなところだと思います。前トム平というように、開けた平らな勾配のゆるいところです。(また4人がいたトムラウシ公園の上もヘリコプターが着陸できると思います。)前トム平下は大雪渓の下ですから、そこが前トム平と知らないとしても、大雪渓の下と伝えればわかると思います。

それからトムラウシ公園に4人がいて、危難に直面していたことは当時私とOさんとHさんしか知らなかった。だから警察にはOさん、Hさんが下山してからしかわからなかったと思います。(午前1時前)だからOさんが5時ごろMガイドに電話をかけさせたというのが、「だまされて」いなかったら、そして4人のことを伝えていれば、夜間登山がおこなわれていたかもしれません。また私はヘリの着陸は可能だとおもうから、4人のことをわかっていればヘリをだしただろう。3人は助かったかもしれません。

OさんがMガイドから携帯を取り上げて自分でかければよかったのだと思います。(これもこういう場合の教訓になると思います。こういう場合会社の社長とか指導者など地位のある人は私がやるといって、電話を取り上げて自分で電話するのだと思います。重要なことだから紛れのないように自分でするのだと思います。経験と押し出しの差だと思います。)

翌日のMNさんの救出はあのあたりに着陸して行われたのではないか。3人の収容も着陸してやったのではないか。それともロープで巻き上げたのか。(これもMNさんに確認したほうがよいかもしれない。)私はヘリの着陸は可能なのだと思う。視界の問題だけだと思います。自衛隊なら夜間でもできると思います。これも情報がきちんと伝わっていたならばと思います。自衛隊のことは後日整理して書きます。

トムラウシのほうが110番は早かったが(トムラウシは詳細がわからなかったからか)美瑛岳のほうにだけ救援隊は出動したといわれています。常駐メンバーは美瑛のほうに出動してしまっていて、トムラウシのほうは、詳しいことがわかってから召集をかければいいと思っていたのではないでしょうか。遭難なれ、遭難疲れなどがあったかもしれない。情報がないといわれれば何もいえないと思いますが、遺族にとっては悔しいと思います。

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⑮ なぞの続き ( 4月15日付け mail )

こんばんは 掲載してください。お願いします。

最初の自力下山者である二人が下山したところは短縮登山口であり、下山の時刻は23:50であると発表された。また高橋道知事が自衛隊に出動要請をしたのは23:45であると発表された。

実際は二人が下山したのはトムラウシ温泉登山口(東大雪荘)で、林道に出たところであった。そこで警察車両に乗せられて短縮登山口に連れて行かれた。23:50は二人が車に乗せられて短縮登山口についた時刻だと思われる。短縮登山口まで車がかかる時間は約20分とされている。そうすると二人が下山したのはトムラウシ温泉口(林道との交差点)で、下山した時刻は23:30であったことになる。

警察の関係者が上記のような発表をしたのは、何か不純なものがあると思う。これによって道知事の自衛隊に対する出動要請は二人が下山する前になされたようになったからである。私は前に「警察はややこしいことをすると」書いた。

調査報告書は二人がトムラウシ温泉に下山したとしている。これは警察に問い合わせた結果だと思う。そうする下山の時刻はどうなったのだろう。警察に問い合わせたのだろうか。23:30となったのだろうか。そもそも警察は公式記録として下山場所、下山時刻を訂正したのだろうか。下山場所を訂正したのならば下山時刻も訂正されねばならないだろう。

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PDFデータ 

⑪ イデオロギーとしての自己責任論

⑫ ツアー参加者について

⑬ トムラウシ遭難と自己責任論

⑭ 前トム平にヘリの着陸は可能では

⑮ なぞの続き

トムラウシシンポジウム A4サイズ 印刷用データ 

日本山岳協会、日本勤労者山岳連盟、及び 日本山岳サーチアンドレスキュー研究機構 共催のシンポジウムで配られたパンフレットのPDFデータには、論者によってA4サイズで「縦」に書かれた記事と、「横」に書かれた記事が混在しております。ここでは、印刷の便を考えて、縦書き記事のための縦印刷用のPDFデータと横書き記事のための横印刷用のPDFデータに分けました。

追補
岩城記者のPDFデータをプリントアウトする際に、プリンターの設定次第では、画面右端が欠けることがわかったので、改良版を作ってみました。(プリンターの設定次第で解決できる問題ですので、わざわざ作る必要も無いのですが・・。)

シンポジウム A4 横 印刷用 PDFデータ 報道側から見たトムラウシ山岳遭難事故の外観と推移(岩城史枝記者) 19.7MB 改良版

同じく、横印刷用のPDFデータのほうも差し替えておきました。

シンポジウム A4 横 印刷用 PDFデータ 全49ページ 30.1MB 改良版

縦印刷用のPDFデータに変更はありません。

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⑧ 日本山岳協会、日本勤労者山岳連盟、日本山岳サーチアンドレスキュー研究機構主催 シンポジウム「トムラウシ遭難事故を考える」 戸田新介様の報告の下書き、⑨ ゴアの露つきについて、⑩ 二つのバイアス、


※戸田新介様より先日(2月27日)神戸で開催されたシンポジウムの資料をご送付いただきまして、それをPDFとしてここで公開してもよろしいでしょうかと日本山岳サーチアンドレスキュー機構の会長、青山千彰様にお伺いしたところ、青山様のご好意により、先ほど開催されました神戸でのシンポジウムの資料(PDF)を、ご送付いただけましたので参考資料としてここに公開させていただきます。

トムラウシシンポジウム 5125KB

ご注意 このパンフレットは筆者により原稿の幅が異なり、一律に同じ用紙サイズで印刷にかけようとすると、記事によっては欠ける部分が出てきます。後日、こちらに修正版を掲載しますので、とりあえずは、各自それぞれのやり方で工夫してプリントアウトなさるか、当座は、プリントアウトしないで修正版の掲載をお待ちくださるようお願い申し上げます。(3月6日に完成しました。Sub Eightをご覧ください。)

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以下本文

⑩ 二つのバイアス (3月7日付け mail)

こんにちは

これだけは書いておきたいと思ったので、掲載お願いします。

防災の専門家の中では、正常性バイアスということが言われています。2003年の韓国大邱市での地下鉄放火事件が有名です。煙が充満しているのに乗客が座ったままでいる場面が映っていました。大阪の個室ビデオ店火災「天井の隙間からうっすらと煙が入ってきて約2分間ぼんやりしていて、」。秋葉原通り魔事件。例はいくつもあります。

今回のトムラウシ遭難でも同じようなことが起きたと思います。なかなか遭難とは思えなかったのではないかと思います。特に低体温症というものは静かに忍び寄ってくる点が特徴と言いますから、「大変だ」と思うには時間がかかるのだと思います。車両に煙が入ってくるというのとよく似ています。参加者の誰も自分から携帯電話をかけていないと言われていますが、参加者も正常性バイアスに支配されていたということではないでしょうか。土壇場にならないと掛けないのだと思います。

もう一つパニック過大評価バイアスというものがあるそうです。防災無線でパニックの危険があるからということで内容の無い放送になってしまう場合などを言います。

今回も先頭のガイドさんがヘリで救助された時に話していたのがTVに移っていましたが、「パニックに陥らないことが一番大事だということは分かっていた」と言った趣旨のことを話していました。(見た人もいると思います)これもパニック過大評価バイアスだと思います。パニックになるからといって何もしない、待ちの心理状態になっていたのではないでしょうか。もちろんパニックになってはならないのですが、しかし危機感を持ち、先を考えることはパニックに陥ることではないと思います。だから一面的にパニックに陥ってはならないと言うのはまずいと思います。「落ちつけ」というのは必要ですが、同時に危機感を持つことが必要だと思います。だから一面的に「落ちつけ」とだけ言うのはまずいと思います。

人間は危機に直面したときに、こういう心理状態なるものだということを知っておいた方がよいと思います。

http://www.bo-sai.co.jp/bias.htm 防災の専門家のhttpです。

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注 バイアス(bias)とは、先入観とか、偏見とかいう意味です。

⑨ゴアの露つきについて (3月5日付け mai)

こんばんは お世話になります。掲載お願いします。

前に私が送りました、ゴアの露つきについてのメールを一部訂正したいと思います。

ゴアのテントでは外が寒いとき朝起きると、テントの内側に露がびっしりついていて、コンロを炊くとテントについている露が水蒸気になり、ゴアのテントから水蒸気が外に出るのが見えると言います。これと同じことがゴアの雨具でも起きているのだと思います。外気が寒いと体表面とゴアの雨具の間の空気に含まれている水分がゴアのテントの内側に露となってつくのだと思います。

問題は下着がビタビタになるほどの水分はどこから来るかということですが、私にはよくわかりません。ただ私は出発の時からずぶ濡れであったという見解には疑問を感じています。私が死んだとすれば同じようにずぶぬれになっていたと思います。つまり死んで体温が低くなれば下着はずぶぬれになるのだという感じがします。私が言いたいのはそれだけです。温度差がある以上体内から水分が出ると言うのは素人の仮説です。詳しいことは専門家が調べてくれるでしょう。なくなった人が全員初めからずぶ濡れの下着を着ていたなどとは信じられない。一部の人がそういうことがあったというならまだ分かるのですが。

⑧ シンポジウム「トムラウシ遭難事故を考える」 戸田新介様の報告の下書き (3月1日付け mail)

お世話にになります。掲載してくださるようお願いします。
私が報告してくれと頼まれて準備した下書きです。実際は大分省略しました。初めと終わりは話しました。

トムラウシからの帰還

1 あえて私が話すことは何もないのですが、参加者の一人として何か話してくれということでしたので引き受けてしまいました。私はマスコミの取材は全部受けてきたので、断る理由が思いつかなかったのです。

2 私がこのツアーに参加したのは、一度北海道の山に行きたかったからです。北海道の山だけでなく北海道自体が初めてだったのですが。申し込んだのは3月です。前年から計画を立てていました。ツアーを利用するのは交通の手段が図られるからです。単独行が可能ならそうしていたと思います。自分の能力の不足を補おうと思ってツアーを利用したことはありません。

3 ツアー客相互で話をするかというと、男性客同士では難しい。それぞれ年齢を重ねていると言うだけでなく、私を含めて登山をする人は社交的でない人が多いと思います。唯一話しやすそうな人はなくなられてしまいました。女性客とはなかなか中に入っていけません。話し合う必要を感じたのは遭難に直面してからです。それに私は自分のことだけを考えていました。ほかの人に話しかけてもばつの悪い思いをすると思ったからです。これから遅れてくるような女性客には親身に話しかけるべきだと思います。これは社交の問題ではないからです。

4 遭難事故のあった日の前日について言います。何でもこの日のことが注目されているようです。雨の日で、終日霧雨が降り続き、山の風に吹かれて顔に当たると言うところです。とにかく急がされたと思います。5分の立ち休憩だし(体が冷えるから出発するというのです。)昼の休憩は30分ぐらいだったと思います。そして水のたまった道の際を歩こうとして疲れ切って歩いたという感じです。ただしガイドさんたちの認識は少し違うようです。若い運動能力の極めて高いガイドさんが先頭に立つと、中高年の感じ方とずれる点があるかもしれません。遅れて歩く人には、追いついたらすぐ出発というやり方はつらいと思います。これはそういう立場にならないとわからないと思います。先行者に待たれるというのはつらいことだと思います。これが遭難当日の雪渓の出来事に影響したかもしれません。

5 遭難当日のことを言います。雪渓に登った時ガイドさんが下に降りて行きました。一人女性が遅れたのだと思いました。下で何かやっていました。次の岩場での男性客のことは知りません。私は前だけを見て歩いていました。それから2回の立ち休憩がありました。これもついたらすぐ出発という感じでした。水を出していたら終わりです。ガイドがあらかじめ次の休憩に何をやるか考えておくということを言っていました。私は前に出て、横にどいてフリースを着ました。大粒の雨が降ってきて休憩を切り上げてから少したって、後は猛烈な雨と風でほんろうされたのです。私はこれぐらいの風雨は台風の最も激しい時に外に出なければならなかったので経験がありました。しかし女性客にはつらかったようです。なにしろ山の稜線ですから。ジェット気流のように間断なく吹き続けるのです。

 私は自分の前だけを見、自分のことだけを考えて歩いていました。だから女性客たちがどのようにしていたかは見ていません。なおガイドさんが何とかしてくれると思って不安を打ち消したという証言があるようです。

6 木道を過ぎてからはばらばらに歩いたようです。木道は転落の危険がありますからどうしても遅く歩くことになります。木道を過ぎると早く歩けるようになりました。私も隊のことは考えず、前の人を追いかけていけばよいと思っていました。2回ザックカバーを飛ばされ一度は直している間に追い抜かれました。前の人、たぶん私達のパーティーの人が歩いていました。風に吹かれてたたずむのは嫌ですから。その後はどうなったか知らないがいつの間にか私が先頭に立ったようです。もちろん私は先頭は前にいると思っていました。ロックガーデンを難なく乗り越えました。岩場の小型のものでこういうのは経験があります。雨があり風が体のバランスを崩しそうになるが、足を送って切り抜けました。後ろから風は吹いていたようです。ロックガーデンの登山道が流水であふれていたと言いますが私は別のわき道を通ったのだと思います。またこのあたりで休憩がとられたというのですが私は知りません。休憩中に岩の向こうを通過したようです。それで小川に一番初めに着いたのだと思います。

7 北沼の小川の渡渉。私が渡った時は20cm強(靴のかかとが20cm)です。皆が膝近くだと言うのでびっくりです。私が渡って少したち、左手の方に若いガイドが石飛をして、合図していました。左後方でサブガイドが水の中にいた(1)だから差は10分弱だと思う。

8 北沼分岐ではだれかがいました静岡隊かもしれません。私はたっていましたがすぐ私達の人を見つけて「後は頂上で登頂写真を撮るだけだ]と言いました。私には方針の変更はどういうわけか知らされていませんでした。その人にまき道を通ると言われて変更を知った次第です。

9 北沼分岐は誰が指定したか誰も指定したわけでなく、自然にできたようです。私は巻き道の話をした人たちが座り込んだのでその後ろに座りました。そこではとにかく待たされる時間が長すぎると思いました。私が遭難だから救援要請をしないといけないと演説したことについてガイドにプレッシャーになったという意見があるがどうでしょう。ガイドさんたちの感じと違うのです。危機感が違うと思いました。また私は出発するとは思っていませんでした。出発すると決まってそれもあるかなと思っただけです。私は110番してほしい、これからどうするか決めてほしいと言っただけです。

10 トムラウシ分岐でのことは私が厳しく言うから反発する向きもあるが、私の言うことは事実です。

11 それからのことはつらいことばかりです。何を言っても言い訳になってしまいます。生きて帰ってくることが罪みたいなことになります。十字架という言葉は小説で読んだのですが、生還者は多かれ少なかれ十字架を背負っていかなければならないと思います。亡くなった人のことを考えればと納得させています。

12 私にとって今回のトムラウシはあまり変化のない、だだぴっろい平原です。あまり面白くはなかった。変化がないし時間が長い。雨であることもあるが。

13 北海道の縦走路は営業小屋がないことが一番の危険だと思います。北アルプスの岩場が滑落の危険があるのに対して、ここでは営業小屋がないことが危険だと思います。雨だと一層危険だというのも共通です。ガイドさんはガイドにすがって不安を振り払りはらおうとする参加者の信頼にこたえるべきだと思う。天候の判断は参加者の命がかかっているとして判断すべきだと思います。雨の日の北海道の縦走など全くサバイバルだけだと思います。なにもよいことはありません。

 ツアーはガイドがすべてであると同時にガイドの判断がすべてであると思います。慎重すぎるようにするのがいいと思います。運動能力の違いがあまりにもあったのだと思います。アスリートの能力からは到底判断ができなかったのでしょうか。中高年の参加者には少なくとも先頭でペースを作る人は中高年のガイドがよいのではと思います。

14 自己責任が言われていますが、この遭難事故の責任問題とは別にして、自己責任を持つべきなのは当然です。その場合自分が故障した時には遠慮しないで申し出るようにするべきだとおもいます。ガイドさんが聞いてくれないと困るが、その場合でも自分の命は自分で守るしかないという自己責任の考えで、簡単に引き下がらないようにしないといけないのだと思います。それがひいては皆のためになると考えることだと思います。このあたりのことは日本人の感覚と外れるので難しいけれど、どうしても遠慮してしまうから。しかし事故をなくすにはそうしないとなくならないでしょう。如何に参加基準を満たすようにしても故障するのが人間ですから。ツアーではどうしても遠慮することばかりを考えてしまいます。だれも文句を言わないのです。おとなしいものでした。文句を言うと面白くないからということもあります。今回も亡くなられた方は黙って、遠慮して、そのうちに動けなくなったのだと思います。

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トムラウシからの帰還.pdf

トムラウシからの帰還.docx