日常性への回帰~青い鳥はどこにいるか?

ありふれた日常性の中に、倦怠感を感じて、僕は、高い山や、危険なルートに向かおうとする。自分自身の生命や身体を危険に晒すことを通じて、生きていること、を実感し、そして、何気ない日常性に千金の価値があることを再認識したいのである。日常性から脱却しようとする、僕の試みは、おかしなことに、巡り巡ってやがては日常性へ回帰するべく、あらかじめ仕組まれているようだ。

F・W・ニーチェの思想に「永劫回帰」というものがある。その思想は、ニーチェいわく、およそ考えられうる人生最高の肯定の方程式であるそうだ。著書『ツアラトゥストラはこう言った。』では、永劫回帰の思想のさきがけとして、超人の思想が高らかに語られる。この本に出会ったのは私が高校2年生の頃、駿台か何かの模擬試験の帰りに神田の本屋で出会った。

超人の思想というものは理解しやすい、「日常性」からこの思想へと跳ぶのは、容易い。されど、超人の思想から、永劫回帰の思想へ至るのは、容易なことではない。字面で理解できたとしても、それは、ニーチェの思想を理解したことにはならない。

彼の思想は、理屈と、感性が車輪の両輪のように、相互補完して思想を深めている特性がある。よって、理屈だけで理解することは表面的な理解にとどまるのである。またそもそもニーチェの思想というものは、「理解」するものではなく、「体現」するものだと考える。体現とはドイツ語の Einverleibung の邦語訳である。

危険な山登りという営みを通じて、私は私なりに、ニーチェの思想を幾分なりとも体現し、永劫回帰の思想をほんの少し理解することが出来た(その本質を垣間見ることが出来た)のかもしれないと考えている。

青い鳥は、日常性の中、われわれの身近に存在する。それに気がつくに私の場合、自分の生命を危険に晒すという荒っぽい方法をとるより他によいやり方を思いつかなかった・・。生命の危険を伴う登山をするしか他になかった。

自分の身体と生命を危険に晒すという営為をいわば回帰点として、私は日常性に、青い鳥を感じられるようになりつつある。

2008年8月28日 掲載記事

Advertisements

Kommentare sind geschlossen.

%d Bloggern gefällt das: