小坂志渓谷~Arcadia

2006年4月17日 撮影 以下の記事は、この年の4月に作成した小坂志の渓谷に関する三つの記事をまとめたものです。

Arcadia 1

ヤマブキが林道に覆い被さるように垂れ下がっている。ムラサキツツジがちらほらと咲いて花びらをまき散らしている。荒地ゆえに植林も出来ずに見捨てられた山麓には、見たこともない樹木が群生している。

小坂志の林道から見る向かいの山の澤筋の風景はまるで、多摩川上流、泉水・小室川谷のように険しく荒れている。
堰堤が造られていない澤を見るのは久しぶりだ。そして、複雑に入り組んだ山稜は、いろいろな地形的なおもしろさを味わわせてくれるだろう。
ここには、人里から離れた寂寥感と、豊かな自然にかこまれた幸福感が共存している。
一人で過ごすにはもったいない、ここは桃源郷 Arcadia の大地なのである。

私が一ノ瀬に行き始めた頃は、花魁渕ゲートから入って、二之瀬の集落の側溝のふたがカタンカタンと鳴っていた。カタンカタンと鳴るたびに、日常性から離れ、一之瀬にはいっていくことが実感された。

山の神土から、西御殿岩に至る踏み跡は、原爆が落ちてこの世の末になってもここだけは別世界で存在し続けるように感じられた。

90年代、戸倉の盆堀林道は舗装もなされずに、道ばたには山吹が咲き乱れていた。
またその頃、日の出山に至る三沢からの旧道は深い藪に覆われて、腕や顔にかすり傷を付けながら下った。
新道も未舗装で、今の時期にはたくさんのヤマブキが咲いていた。・・今は刈り払われて、姿形もない。

いま思うことは、私はこれまで誰にも頼らずに山に入ってきたこと、このWebSiteでさえも、誰にも頼まれずにやっている。記事を書いても別に金にはならない。
私は私がかけがえのないものと信ずる豊かな自然を深く深く愛する。

この場所は心象風景、感受性を引き出すきっかけを与えてくれる契機となるもの。
私は豊かな自然を公開して、広く世に流布せしめようと言う心つもりは毛頭なく。
ただ、私の心を満たしてくれるものを賞賛するのみ。

この小坂志の渓谷と出逢ってから、私は、「高み」という言葉を心に取り戻した。一之瀬の風景に私がかって感じたもの、私を一之瀬に惹き付けたもの。そういうものがここにはある。

自分を高め、心を崇高にさせてくれるところ、そういう山岳地帯こそ私にとって大切なのだ。

ここに出逢ってから私は、このWebSiteの運営などどうでもよくなってしまった。山登りの方法論等どうでもよい。 私が 楽しければよい。 私の精神が かって失われていた、精神の崇高性、自分が  高まった 感覚 を取り戻すこと。 そういうことが もっとも 大切なのだ。

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Arcadia 2

ここは自分の大地である。うまくは言えないが、自分はこういうものが好きなのだ。こういうところは私の五感に良い影響を与え、自分をよいコンデイションで居させてくれる。一種の 陶酔感 を感じさせてくれるところこそ、私にとってかけがえのない大地なのである。

あなたが何を求めて山に入るのかは私は知らないが、私はそういうものを求める。

振り返って・・、難しいルートの解説で そこで右だ、こんどは左だとか、ザイルワークはああしてこうしてとか、持ち物の説明とか、トレーニングの話しとか、 はたまた草花の名前とか、そういうものは一切二の次、三の次なのだ。
自分が崇高感を感じるかいなか、自分がインフレーションする体験を得ることが出来るかいなか、自分が陶酔感を得ることが出来るかいなか、そういったことのほうが遙かに大切なのだ。

私の感覚は、研ぎ澄まされて、普通なら危険と感じるものも危険と感じなくなってくる。周囲数㌔にわたって人一人いない山の中で、落ち葉吹き飛ばす強い向かい風を身体にうけながら、一人愉しんでいる。

そういうものを私は自分を覚醒させてくれるものとして強く強く求める。
私の感覚は普通の登山愛好家のそれとは違っている。そんなことはとうに承知の上なのだ。

もとより、この文章は万人向きではない。そんなことはわかっている。

自分を強く、激しく山に向かわしめるもの、そういうものが何であるか?世の登山レポートを見てみたまえ。文章の行間から なにかしらの高揚感 が感じられれば、作者がほんとうにその山を愉しんだとわかるが、どうだろうか?

ほんとうにおまえは山を愉しんだのか?自分にとってその山域のそのルートはどんな意味を持っていると位置づけるのか・・?そう自問自答しながらいつも山に登っている。

もっとも、山に入る者の全てが鋭敏な感性を持っているわけではない、鈍感極まりない感性の持ち主もあまたである。大した感受性も持ち合わせていないのに週末ごとに山に入る暇つぶし屋を私は憎む。

山で受けた刺激が強く深ければ深いほど、それは永続的に作用する。その人を通じて他者にすら影響を及ぼす。

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Arcadia 3 時を待つ、

はじめに・・。

ここのWebSiteの記事総数は現在80(注 2006年4月当時)そこそこですので、10分もあればザッと全ての記事をご覧いただけます。そのばあい、下にある「次のページ」をクリックされれば便利です。
また主な項目名は画面右の端に掲示してありますので、それぞれクリックされますと、該当記事が表示されます。(現在、日陰沢の項目は非公開になっています。)

最近思うことは、それぞれの山や渓谷との出会いにはある種の必然性があると言うこと。逆に言えば、それなりの「時間の蓄積」が必要であること。 運命的な「出会いの時」を待つこと、そうすればいつかきっと佳き山々との出会いがあろうと云うこと。

わかりやすく言うならば、ガイドブックを広げて、のべつ幕なしにそこここの山に登りまくるというのは、ひとつひとつの山々との出会いの意味を希薄化させるので好ましくはない。 山との出会いは憧れの女性(ここは、もしあなたが女性ならば、「男性」となる)との出会いと同じ、一期一会。ひとつひとつの出会いを大切にしてゆかなければ、実りあるものも得られない。

自分の熟成を待つことがよき山と出会うひとつの方法・・。よき山、渓谷と出合うためにも時を待とう。

・・そういうことを思うと、自分が登った山々のレポートをするのは、ある意味皆さんにとっては「余計なお世話」となろう。 また、全ルートを網羅してあるガイドブック的な説明書も、無価値である。

いったい、そのように山々を解説の対象として扱うのは愚かしいのではないか?

・・となると、必要最低限の技術的な説明と幾つかの例示的なルートガイドで充分ではないのか?
それ以上は、あなたがた人それぞれの極めて個人的な「出会いの領域」であって、押しつけられるべきものではないのだろう。

そういうわけで、ここには80ばかりの記事の中に、技術的な最低限と、幾つかの例示的なルートの説明がなされています。こういうものをヒントに、それぞれの山登りを進められて、自分の熟成を待たれ、ご自身なりの山々との邂逅をなされれば、それで、このWebSiteの役割も終わることでしょう。

個人的にこれからは、少しは「残ること」をやってゆきたいと思っています。好きな山々の写真撮影やそれのアルバム化とかですね。

おわりに、以降も記事の修正、加筆是正は進めます。
皆様の安全で楽しい山登をお祈りさせていただきます。

管理人 Minerva (峰)

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