影響を受けず、与えず・・。

回帰

私の登山の原点は三つある、ひとつは、F.W.Nietzsche の思想。 もうひとつは、故郷、奥多摩、奥秩父の偉大なる先蹤者達すなわち、原全教、田島勝太郎、そして、宮内敏男、彼らの残したこの壮大な山岳にまつわる幾つかの書籍。 そして、三つ目は、現代アルピニズムであり、山学同志会の小西政継さんの著書である。この三つのうちの何れが欠けても、私の登山は成立しないのである。

「また岩登りを真剣に覚え、将来アルプスや、ヒマラヤの岩壁を目標にするなら、山以外の趣味や、山以外の友人とのつきあいはすっぱりやめちゃおう。このくらいの意気込みがないと、技術と直結している精神的な上達が望めないからだ。」

小西政継 「ロッククライミングの本」より抜粋 (「甲武相山の旅」 2009年6月13日 掲載記事)

影響を受けず、与えず・・。

いまは自己主張の時代であるようで、有名選手や、有名ではなくっても長く登山や競技をやっている人のWebSiteには、自己紹介欄に過去の栄光の記録があがっている。そういう記録を挙げると「信用」されるのかもしれないし、一目置かれるのかもしれない。

自分はというと、僕は自分の登山記録をつらつらと書き上げるようなことはしない。それほど大した登山をしてはいないし、そういうのが「肩書き」になるとも思わないからである。(だから、自分はよく単なる一般ハイカーに誤解されるんだけれどね・・まぁ、人が自分のことをどう受け取ろうが構いませんがね。・・苦笑)

私は、「能ある鷹は爪を隠す」という美徳を重んじたい。

山の世界で、有名になろうとして、生命の危険がある登山を行おうとすることは愚かしいことである。また、だれかに焚き付けられてそのような登山をして見返してやろうという心情も、愚かしいものと考える。(特に、こういったWebSiteの上で、どこそこの理解なきブロガーか誰かにせせら笑われて、見返すために、危険な登山をしようというのは、心情は分かるが、もう少し落ち着けといいたくなる。)

生命の危険があるような登山は、自分の心に従ってのみ行うべきである。自分の心がそれを求めるときにのみ行うべきで、功名心とか、名誉欲とかで動いてはいけないと考える。

もっとも、焚き付ける方も焚き付ける方である。・・ハイカーに毛がはえたくらいの登山を長くやっている臆病なものが、一端の登山家気取りであれこれと意見を言っているのは、気に留めずに放っておけばよい。そのような者に焚き付けられて、命を落とすようなことはあってはならないと考える。人の口に戸板は立てられないものだ。

「人の冒険的行為を批判することは容易いが、冒険行為を行うことは、批判することより遥かに困難である。」

ちなみに、私は自分のことを登山愛好家だとは思っていない。奥秩父や奥多摩は私の裏山の尾根続きの山であり、そこで行っている私の活動(生命に危険があるものも含めて)は、「登山」ではなく心身を鍛える訓練である。登山は武道とは違うものであると考えるが、登山に求道的精神を持って取り組む立場というものはありうる立場であろう。

最高の登山を成し遂げたものは、武道的価値観からすると、一種の奥伝の域に達したものとして、その精神性が尊敬される筈であるが、実際どうであろう・・。
現代において、最高に困難な登山を成し遂げたものは、あのダライ・ラマのような高貴な精神性を備えているだろうか?
安物の、ペーパーバックの精神性しか備えないのならば、彼のその登山も、単なる自己満足に過ぎないと言えるだろう。

僕が山に求めるものは、精神性を高めてくれるひとつの契機である。(「甲武相山の旅」 掲載記事)

冒険の飽和点


唐松尾山北側山頂から瀧川谷を俯瞰する。太陽の真下にあるのが、水晶山で、その右が、雁坂峠付近。

人が山に向かうには、人それぞれの理由があるわけであり、(もっとも、これといった理由もなく山に入る人もいるけれど・・。)

・・私の場合、なぜ一人で山に登るのか、先日のような登山をするのか?といえば・・。

生命を危険に晒す見返りに得られる経験が、私らしく生きてゆくために必要不可欠だからであり、それは、日々のストレスを昇華して、正気に回帰する必要欠くべからざる自己回帰の過程だからである。

この様な、(求道的な)精神に裏付けられた自我インフレーションは、とどまるところを知らないのか?

命尽き果てるまで、危険な登高を繰り返すのか?

それとも・・平穏な「知足安分の心」

冒険を求める心もいつか「飽和点」を知り、登高を止めて、生命を危険に晒すことを欲しない心持になるのか?

そんなことを、ずっと心は問い続けている。

・・少なくとも、今はまだ心は「飽和点」に達してはいない、

だから、まだしばらくは、日々受けるストレスから 心を落ち着かせるために、精神の健常性を保つために 危険な登山に取り組むことになろう・・。

死に近接すると、生をいとおしく感じ、危険が肌で感じられるぐらい迫ると、普段眠りかけている「生存本能」が発揮されるようだ。

逆説的ではあるが、街中でよりよく生きんがために、山に危険(自然との対峙)を求めるのだ。

(「甲武相山の旅」 2008年5月26日 掲載記事)
 

Advertisements

Kommentare sind geschlossen.

%d Bloggern gefällt das: