⑪ イデオロギーとしての自己責任論、⑫ ツアー参加者について、⑬ トムラウシ遭難と自己責任論、⑭ 前トム平にヘリの着陸は可能では、⑮ なぞの続き、

⑪ イデオロギーとしての自己責任論 (4月11日付け mail)

おはようございます いつもお世話になります。掲載してください。

自己責任論は多様に唱えられています。イラク人質自己責任論、ホームレス自己責任論、派遣切り自己責任論、ワーキングプアー自己責任論、過労死自己責任論、投資自己責任論、いまどき家の鍵は2つ以上つけるべきで、それを怠って強盗に入られても自業自得であるという自己責任論(警察の怠慢ではない)、老後は民間の保険に入っておくべきであるという自己責任論など。

JR福知山線事故の被害マンションの住民に対する自己責任論(マンションが線路のカーブという危険な場所にあったのが悪いから、住民が損害の全部または一部を負担するべきだ)。(wikipedia参照)

ネットのサイトには何百万とある。自己責任論、登山自己責任論その他が。

登山の自己責任論では①行政サービスをなすべきかということがある。雪山で遭難したのは自己責任で行ったのだから救援をしないでよい、または費用を負担するべきである。②私人間の関係でいわれることがある。登山は自己責任だからガイドは面倒を見なくてもよい、ガイド、会社に責任はない。
トムラウシ山遭難事故では②が問題になっているのだと思う。

●いわゆる自己責任論は事故が起こってもその責任を他人に転嫁してはならないという主義主張(イデオロギー)または心構えだと思います。法的な責任ではないと思います。債務者(ガイド、会社)が法的注意義務を負うとしても、最終的には自分の命は自分で守るしかない、ガイドや会社の責任を追及してみても、失った命は返らないというのなら私はそのとおりだと思います。(心構え)

問題はガイド、会社に自己責任を理由にして法的責任がないとされることにあると思います。自己責任にそこまでの意味を含めていいのだろうかと思います。ガイド、会社に注意義務が有るかないかを先に考えるべきで、参加者の自己責任だからガイドの注意義務はないということではなく、ガイドに注意義務がないから自己責任でやるしかないとなるのだと思う。。

要するにガイド、会社は自分の注意義務違反の責任を参加者の自己責任違反を理由に免れるわけではないと思います。注意義務がないとされれば免れるが、それは当然のことです。山ではガイドの注意義務はどこまで及ぶか、今回の事故ではガイドと会社の注意義務がどこまで及ぶかを考えるべきで、自己責任論を持ち出すべきではないと思います。

●債権者(参加者)の過失および不可抗力の場合は債務者(ガイド、会社)に法的責任はありません。債権者の過失と債務者の過失が競合するときは過失相殺となります。つまり債権者の過失は法的な意味を持っています。債権者の過失にはいわゆる自己責任という言葉は使いません。

●いわゆる自己責任と債権者の過失は混同をしてはならないと思います。そして自己責任を言うときは参加者の法的な義務を言うのではないことをはっきりさせておくべきです。なお参加者に自己責任にもとる行為があって、それが法的意味においても過失があるといえる場合ならば債権者の過失という言葉を使うべきです。

●「全員が参加基準をクリアしていたが、悪天候下の経験と体力が不足していた人がいた。」(調査報告書)これが自己責任の問題なのか、それとも債権者(参加者)の過失になるのかがはっきりさせないで述べられているので、問題があると思います。自己責任の問題なら登山に限らずあらゆる危難に対処しておくべきだということがいえます。それについては誰も問題にしないと思います。債権者の過失という意味でいっているのならば議論があると思います。(会社が参加基準を厳しくすればよいことだから参加者の過失とはいえないと思います。参加者に悪天候下の経験と体力がないからガイドに責任がないまたは責任が減ぜられるとはいえないと思います。ただし他の考えもあるかもしれません。)

●単独行登山の場合は自己責任であるといわれるが、これは法的責任ではありません。法的責任を負う人がいなければ自己責任が出てくるということです。それは登山に限らないと思います。自分のことは自分でするという自己責任に、他の人が負う法的責任をペタペタと貼り付けて社会が成り立っているのだと思います。

自己責任論は盛んに言われているのでこの際きちんとした整理をしたほうがよいと思います。自己責任論は政治的、社会的に、つまり非法律的に(イデオロギーとして)使われているので整理したほうがよいと思います。

私は今までこのように考えてきました。

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⑫ ツアー参加者について (4月12日付け mail)

こんばんは 掲載おねがいします。

ツアー登山参加者に対しては、パーティのメンバーとしてあるまじき実態が言われ、問題視されています。そして特別委員会の報告書では「ツアー登山といえども登山であり参加者にパーティのメンバーとしての自覚を促す必要がある。」と主張している。

『ほとんどのお客さんは、あくまで「客」として来ている意識の人が多く、知らない人の寄せ集めであり、会社に連れて行ってもらっている、という意識は明らかにあります。お互いの結びつきもない、単なる集合体であり、それはパーティとは呼べず、個々が個々のために歩いているだけのことであり、会社側もその結びつきに対してどうのこうのは言いません。』(シンポジウム 山形昌広氏 3枚目の最後)私が今回のツアー登山で北沼分岐につくまでの姿はまさに「個々が個々のために歩いているだけ」であると思います。(私の記録P9~12参照)

「最近増えている募集登山やツアー登山の危険性のひとつは、山岳会の山行であれば通常得られる他の会員からの経験、技術、情報の伝達や、山行中の援助、補助をうけることがなく山行が実施されるという点です。そこでは、参加者相互の援助協力関係を期待できず、引率者と参加者の間の直接的な援助関係しかないので、それが不十分な場合には直ちに事故に直結する危険があります。また、営業的ツアー登山では、遭難事故が起こっても救助活動を引率者にまかせ、他の参加者は先に帰宅することが多いと思われ十分な救助活動を期待できません。」(溝手靖史 登山の法律学P144)

「仲間同士の登山では、原則としてリーダーに参加者に対する安全配慮義務が生じないとしても、参加者相互の間に委任契約、準委任契約もしくはそれに類似した契約関係があると考えられ、それによって一定の義務が発生します。」(同P49)その一定の義務として「互いに援助協力するよう努める義務」があげられている。「パーティは参加者が互いに援助協力することを目的として結成されるので、この義務は当然のことです」(しかし「これは努力義務であり、これに違反したからといって法的責任は生じません。」ともいわれている。)(同P50)

ツアー登山では参加者相互の間に委任契約、準委任契約もしくはそれに類似した契約関係があるのだろうか。これについて溝手氏ははっきり述べられていません。私は次のように考えます。
仲間同士の登山ではパーティを組んで登山しようとすること自体に委任契約締結の意思を認めるのだと思う。仲間同士はそれこそ自己責任で山に行くのだから、リーダーをはじめとした役割分担を決め、準備し、どこへ行くか、天気は、地図は、交通手段は、何が必要か、時間管理、場所確認すべて自己責任でやるしかない。そこにおのずと互いの間の委任関係ができるのだと思う。

しかしツアー登山ではガイドという圧倒的に優越した権限と義務と能力を持った(あるいは持つと期待された)人があらかじめ決められているのである。参加者の出る幕はほとんどないと思います。むしろ参加者が口を挟まないほうがスムーズに行くのだと思います。(要らんことを言うな)コミュニケーションについてもガイドの優越的地位があるので、参加者は参加者相互の間にはあまり必要ではないと思っていると思います。たとえ一人がこれではいけないと思って努力してみても、参加者全体がそう思っている以上どうしようもないと思います。

参加者相互の間には委任関係を認めることはできないと思います。ガイドという優越的存在が独占するので、参加者のするべき任務がないから、パーティのメンバーであるという自覚はできないと思います。そういう実態を踏まえて意思解釈をするのだから委任関係を認定することはできないと思います。ツアー登山参加者に共通する行状からもそう思います。つまりこうするべきだというところから解釈をしてはならないのであって、当事者がどうすると思っているのかという意思の推測によって解釈をするのだと思います。だから委任関係はない。ゆえに互いに援助協力する義務は(それが努力義務にすぎないとしても)ないと思います。あるとすればそれこそ道徳的な困っている人を助けてあげたいという気持ちだけだと思います。この辺りのことは別の見解があるかと思いますが、委任関係はないと思います。

私について言えばおよそ他の参加者と協力して積極的に何かをなすということは考えてもいなかった。万が一に備えて常々協力しておくんだといわれても、違和感を覚える。ガイドのやっていることを一部引き受けるのだろうか。ガイドに何か協力することがありますかと申し出るのだろうか。110番をガイドの変わりに引き受けるということはあったと思います。しかしガイドが決めるのだから、ガイドから依頼されてからでしょう。私の考えていることはむしろガイドに対して、他の参加者の意見や状態を言って対策を求めることです。ガイドは仲間のリーダーという感じではない。仲間のリーダーだったら、リダーに協力すると思う。仕事で来ている人とお客は違うと思う。ガイドが「お客様だ」というなら、参加者は「仕事だろう、プロだろう」ということです。(なお他の生還者とはいままで連絡は取っていません。取りたい、聞きたいと思っていますが、相手にまかしています。連絡はありません。ツアーの場合はその場限りのものだから、そういうものです。)

そしてツアー登山の参加者の行状は、ツアー登山という制度自体からくるのであって、ツアー登山をやる以上は常に出てくると思います。メンバーとしての意識を持たせるといっても不可能だと思います。コミュニケーションを持てといってもできないと思います。制度自体からくる問題だから制度自体を変えないとできないと思います。個々の参加者の質の問題ではないと思います。個々の参加者を非難しても始まらないと思います。ツアー登山者に対してはいろいろな要望が言われている。(調査報告書P47)しかし私はツアー登山の制度を変えないとできないと思います。調査委員会の人たちもそう思っていると思いますがどうでしょう。会社のほうは形式的に色々いうだろうけれど、形骸化するだろうとおもいます。

ツアー登山も登山であるからといわれている。しかしツアーであるということもいえると思います。法的な意味において旅行と登山に質的な違いがあるわけではないと思います。違いはガイドがいるのか、仲間だけなのかの違いだと思います。ツアー旅行もツアー登山も同じだと思います。仲間だけの旅行と仲間だけの登山は同じです。存在が意識を規定するのだから、ツアー登山の参加者が客意識を持つのは仕方がないと思います。それは制度としてのツアーの問題だと思います。登山だからといって参加者としての意識の質的な変化ができるわけではないと思います。

私としてはなぜこれほどの非難がされるのかがよくわからない。わからないのはパーティの経験がないからだと思う。私は普通のツアー登山者として行動してきたつもりであるが、それが非難の的になっているように思います。少しおかしい、何かおかしいと思う。私はもうツアー登山は利用したくないと思います。こんなことを言われるのでごめんこうむりたいと思います。ツアー登山の参加者を批判する人はツアー登山を利用したいとは思わないようである。それはツアー登山自体がおかしいと思っているからだと思います。自分が参加したとしても他の参加者とコミュニケーションをとったり、見ず知らずの参加者と協力関係を作ったりできる自信がないのだろうと思います。「ばらばらの登山者」である自分を発見するだけだと思います。そういう自分を見たくないのだと思います。

新しいツアー参加者がどんどん出てくるのは避けられないと思います。需要が有る以上避けられないでしょう。そしてツアー登山は禁止せよと悲憤慷慨すればいいでしょう。なお昨年の北アルプスでは事故の影響でかえってツアー登山客が増えたといいます。不思議なものです。

私がツアー登山の客の立場から抜け出そうとしたのは北沼分岐で一人の参加者の危機を見たからである。しかしそれはすでに遅かったのだと思う。何もできなかった。一部の人からは要らんことをしたと恨まれている。私もよくわからない。また私がマスコミなどにしゃべったことに対しても、登山ではリーダーを非難しないのが鉄則である、登山は自己責任でやるべきで、他人を非難するべきではないという意見がある。

最後にツアー登山のあるべき姿は企画じたいにあるのだとおもいます。ガイドのミスを織り込んだ計画だけをやればいいのです。ガイドが天候判断をミスすると瓦解するような計画は立てないことだと思います。「天候やガイドの能力に関係なく、安全性を確保できるように設計、企画すべきである。」(シンポジウム 溝手P70) スワンさんも同じようなこと言っている。他の会社が安全性の問題から手を引いたところにまで、手を広げすぎたのだと思います。

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⑬ トムラウシ遭難と自己責任論 (4月13日付け mail )

おはようございます お世話になっています。 掲載お願いします。

自己責任は近代私法の原則の一つとされているので、市民革命のときのブルジャージーの主義主張だったのだと思う。レッセ・フェールとも関連するのだと思う。欧米ではいろいろなイデオロギーがスローガンとして時々持ち出してきたそうだ。これが日本で広く使われるようになったのは、ネットでみんなが使い出したからだとされる。10年ぐらい前からみんなが多用するようになったという。パソコンが普及し、ネットにつながれ、みながブログに使い出したのだという。まず2チャンネルで使われ、それが一般のブログに、さらにネット以外にまであっという間に広まっていったのだそうです。2004年のイラク人質事件では小泉首相が自己責任を唱え大衆の支持を得た。2004年流行語大賞になったそうである。小泉首相はこれで反対勢力を葬り去ったという。いまではネットで書き込みの際にはこの呪文を唱えることが約束となったという。(自己責任で見てください。)

自分のことは自分で始末をつけろ。自分でまいた種は自分で片をつけろ。このように他人に対して攻撃する言葉として多用される。交通事故もそこにいるほうが悪いんだ。外に出る以上事故の危険を覚悟するべきで自己責任だ。さらには子供が自己責任で宿題をやらないと決めたから文句を言わないでというそうだ。自己責任で高山植物保護のためのロープの中に入りますという人がいるそうだ。自己責任で強盗します!自己責任で覚せい剤をやっています?

これほどにも恣意的に使えるタームは、2チャンネルの愛用者には便利だったんだ、それで飛びついたのだろう。そしてそこからみんなが使い出した。ネットの書き込みには非常に便利だと思う。匿名の人間が無責任なことを理屈づけて言うにはぴったりだ。屁理屈をカムフラージュして、相手を困惑させて言いたいことを言うのだ。冗談として使うべき言葉になっていると思う。だからこの言葉はまじめな議論では警戒してかからねばならないと思う。背後には何があるのかを分析するべきである。この言葉が使われる前はどういう言葉で言われていたかを考えるべきだと思う。またまじめな議論ではあまり使うべきではないと思う。詭弁。

なぜ登山に自己責任論が使われるのだろう。

①他人が、雪山などの遭難には救援隊を出すべきでないという場合。自己責任で行ったのだから、行政サービスはいらないというのである。

②単独登山者や仲間だけで行く登山者が自分たちの自戒として自分のことは自分でするという場合。これはあたりまえのことで、10年ほど前は自己責任という言葉を使わないでやってきたことである。自分たちでやるしかないのだからいちいち自己責任を持ち出す必要はないと思う。ヒマラヤに登る人が自己責任を言っているが、誰もいないのだから死にたくなければ自分でやるのは当たり前でないか。自己責任という言葉がなかったときも同じである。いちいち登山は自己責任だと言って他人に心理的圧力をかけることはないと思う。自戒だとしても他人にはお前は自己責任がないから登るなと聞こえると思う。年寄りは来るなという意味が出てくる。自己責任をいちいち言わないでほしい。山は危険だということを言うのはいいと思うが、それだけでいいと思う。
遭難した場合は、単独行だと最後まで救援依頼をしない人が多いのだと思う。自分のためだと自己責任の考えから躊躇するけれど、他人のためなら救援を依頼するというのは自己責任に反しないと考えるのではないだろうか。組織登山者の場合は自ら救援隊を組織して行くことになっている。これも昔からやってきたことで自己責任を持ち出すまでもないと思う。

③救援隊関係者が安易な救援要請が多いとして自己責任を強調する場合。安易なのはまずいと思う。しかし、自己責任を強調すればがんばりすぎてかえって大きなことになってしまうことがあるがこれは問題にしなくていいようである。救援隊としてはとにかく救援の依頼がないほうがいいのであって、事故の犠牲の多寡は問題ではないのだろう。目の前に現れねばいいのだ。

④参加者は自分にミスがあるときには、自己責任を問われたくないのでミスを隠そうとする。自己責任をガタガタ言われるくらいなら、自分で我慢すれば無事に切り抜けられると思って、結局二進も三進も行かなくなって、それでも我慢してついに動けなくなってしまい皆に知られるところになる。だから自己責任は事前に啓蒙的にのみ言うべきではないか。事後(登山が始まったら)には自己責任を言うのはまずいと思う。事後にはむしろミスを言い出しやすいようにするべきだと思う。

⑤ツアー登山の場合 ガイド、会社から参加者に対して弁明としての自己責任論。参加者がまともな準備をしなかったことが悪い自己責任論。ガイドがミスをしてもそれに対処しておくべきだった自己責任論。こういう会社または企画を信じて申し込んだのが悪い自己責任論。4つ星の基準を満たしたとしても、悪天候のために6つ星になることもあることを覚悟するべきで、それに耐える体力がないのが悪い自己責任論。自分で防寒具を着たり食事を取るべきだった自己責任論。低体温症で判断が鈍っていたとしても、低体温症でそうなることを覚悟しておくべきだった自己責任論。ガイドがいるので自分を安心させたとしてもガイドは万能ではない自己責任論。黙って死んだとしてもそれは自己責任で死んでいったのだからガイドを批判するのは亡くなった人の意思ではない自己責任論。

ツアーの参加者の過失によって事故が起こってもガイドに責任はないが、それは債権者の過失は債務者に責めはないからであって、自己責任を持ち出す必要はない。安易な参加者がいるので自己責任を強調するのだという。登山で準備行為はそれこそ自己責任だからわざわざ言われなくてもいいのではないか。安易であろうとなかろうとそれも自己責任だと思うが。自立した登山者であるためにというがそれも自己責任ではないか。自立していないために事故が起こったとしたらそれも自己責任だといえばいいのでは。誰かに言われんでもいいはず。自己責任を教えること自体が自己責任に反すると思う。自分でやればいいはずだから。雪山入山に際して警察が届出制をしたりするのと同じ考え方である。

32歳ガイドが救援を遅らせた理由がいまだに明らかにされていない。私の仮説(思いつき)はこのガイドは自己責任にとらわれていたので、自分で何とかしようとして時間を使い、遅くなったという仮説です。

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⑭ 前トム平にヘリの着陸は可能では ( 4月14日付け mail )

こんにちは お世話になります。掲載してください。

遭難事故の10日前に救援のための夜間登山があったといわれていますが、今回はなぜ夜間登山がされなかったか、理由は明らかになっていません。マスコミが追及しないからですが、追及しても答えるかどうかは疑わしいと思います。やはり詳細な情報を入れなかったからだと思います。第一報は110番しただけのようです。第一報としてMガイドがどういうことを伝えたのか、これもわかっていません。ポーターと言うばかりだったということは伝えられていますが。救援要請の趣旨が入っていたのはわかりますが、どういう内容だったかはわかっていません。これがわからないと警察の対処の適否は判断できないと思います。

警察はいつものようにしただけと仮定すれば、やはりMガイドの伝えた内容が不十分だったのだろうと思います。Mガイドは110番をかけている間に電池切れのため、MEさんに「電話を出しなさい」といわれて自分の携帯を出して電話をかけたというけれど、「空うち」だったという。彼はしゃべることはできるが電話をかけることはできなかったようです。これが4時ごろです。5時ごろにはOさんが降りてきて、Mガイドを見つけて「私の前で電話をかけなさいよ」といって、かけさせたという。しかしこれも「空うち」だという。Oさんもすっかり「だまされた」ようです。(なお私は前トム平の上あたりで、Oさんに先に行ってもらっていたので、Mガイドが電話をかけているのは見ていません。調査報告書はこのところは間違っています。私が降りてきたときはMガイドは座っていて、Oさんのほうを見ていただけです。私は彼の携帯は見なかった。)

Mガイドがいたところはヘリコプターが着陸できそうなところだと思います。前トム平というように、開けた平らな勾配のゆるいところです。(また4人がいたトムラウシ公園の上もヘリコプターが着陸できると思います。)前トム平下は大雪渓の下ですから、そこが前トム平と知らないとしても、大雪渓の下と伝えればわかると思います。

それからトムラウシ公園に4人がいて、危難に直面していたことは当時私とOさんとHさんしか知らなかった。だから警察にはOさん、Hさんが下山してからしかわからなかったと思います。(午前1時前)だからOさんが5時ごろMガイドに電話をかけさせたというのが、「だまされて」いなかったら、そして4人のことを伝えていれば、夜間登山がおこなわれていたかもしれません。また私はヘリの着陸は可能だとおもうから、4人のことをわかっていればヘリをだしただろう。3人は助かったかもしれません。

OさんがMガイドから携帯を取り上げて自分でかければよかったのだと思います。(これもこういう場合の教訓になると思います。こういう場合会社の社長とか指導者など地位のある人は私がやるといって、電話を取り上げて自分で電話するのだと思います。重要なことだから紛れのないように自分でするのだと思います。経験と押し出しの差だと思います。)

翌日のMNさんの救出はあのあたりに着陸して行われたのではないか。3人の収容も着陸してやったのではないか。それともロープで巻き上げたのか。(これもMNさんに確認したほうがよいかもしれない。)私はヘリの着陸は可能なのだと思う。視界の問題だけだと思います。自衛隊なら夜間でもできると思います。これも情報がきちんと伝わっていたならばと思います。自衛隊のことは後日整理して書きます。

トムラウシのほうが110番は早かったが(トムラウシは詳細がわからなかったからか)美瑛岳のほうにだけ救援隊は出動したといわれています。常駐メンバーは美瑛のほうに出動してしまっていて、トムラウシのほうは、詳しいことがわかってから召集をかければいいと思っていたのではないでしょうか。遭難なれ、遭難疲れなどがあったかもしれない。情報がないといわれれば何もいえないと思いますが、遺族にとっては悔しいと思います。

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⑮ なぞの続き ( 4月15日付け mail )

こんばんは 掲載してください。お願いします。

最初の自力下山者である二人が下山したところは短縮登山口であり、下山の時刻は23:50であると発表された。また高橋道知事が自衛隊に出動要請をしたのは23:45であると発表された。

実際は二人が下山したのはトムラウシ温泉登山口(東大雪荘)で、林道に出たところであった。そこで警察車両に乗せられて短縮登山口に連れて行かれた。23:50は二人が車に乗せられて短縮登山口についた時刻だと思われる。短縮登山口まで車がかかる時間は約20分とされている。そうすると二人が下山したのはトムラウシ温泉口(林道との交差点)で、下山した時刻は23:30であったことになる。

警察の関係者が上記のような発表をしたのは、何か不純なものがあると思う。これによって道知事の自衛隊に対する出動要請は二人が下山する前になされたようになったからである。私は前に「警察はややこしいことをすると」書いた。

調査報告書は二人がトムラウシ温泉に下山したとしている。これは警察に問い合わせた結果だと思う。そうする下山の時刻はどうなったのだろう。警察に問い合わせたのだろうか。23:30となったのだろうか。そもそも警察は公式記録として下山場所、下山時刻を訂正したのだろうか。下山場所を訂正したのならば下山時刻も訂正されねばならないだろう。

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PDFデータ 

⑪ イデオロギーとしての自己責任論

⑫ ツアー参加者について

⑬ トムラウシ遭難と自己責任論

⑭ 前トム平にヘリの着陸は可能では

⑮ なぞの続き

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