海行かば

海行者美都久屍 山行者草牟須屍 大皇乃
   敞尓許曽死米 可敞里見波勢自

A country who can remember the sacrifice of their sons fallen for their country will always be stay a great country.
Long life to Japan.

Greattings from France
JM Pizzini

「海行かば」 作詞 大伴氏言立、大伴家持 作曲 信時 潔 1937年
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※ 万葉仮名は、下記のリンク先の記事より引用させていただきました。

海行かば考

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呪縛を解く

ドイツには、いわゆるネオナチに傾倒する若者が少なからず存在し、彼らは現状への捌け口として、ナチズムに拠り所を求めているようだ。

ネットで、いわゆる右翼系の記事を読むと、どこか回顧主義的で、つまり現代的にアレンジされていない。当時の思想のままに、戦前、戦中の思想が再び持ち出されているように感じている。それは、往時を知るものにとっては懐かしいであろうが、今の世に広く受け入れられるとは限らない。一言で言うならば、ストレートな復古主義というものは下手をすると時代にあっけなく拒否されるだろう。

この歌は、戦前において準国歌とも言われた「海行かば」であるが、卒業式や入学氏で歌われている「君が代」に比べてこの歌はいまだに日陰の存在である。この歌を歌うと、右翼だの、帝国主義者だの、いまだいろんなレッテルを貼られ、また誤解を招くことになるだろう。

慎重な再解釈を施した上でのみ、この歌を現代に再び蘇らせることが可能である。
この歌の背後にある思想については以下に詳論するとして、まず文語上、この歌を現代に蘇らせるにあたり障害となるものは、ひとつは、この歌は「死」をイメージさせるということ、それと、「大君(おおきみ)」という言葉であろう。

この歌の詞はそもそも万葉歌人の大伴家持(おおとものやかもち)の詞(大友氏言立)からとったものであり、「大和朝廷の有力豪族であるわれら大伴氏は、天皇家に代々使えてきた誉ある家系である。」、ということを謳った歌なのであるから、この歌が、「死」をイメージさせるというのは、正しくはない。Ich hatt einen Kameraden がそうであるように、太平洋戦争後期に、出征兵士を見送る際や、玉砕を伝える大本営発表などの際に使われた経緯があって、それがこの歌に「死」のイメージをダブらせることになったのである。

では、「大君(おおきみ)」はどうか?象徴天皇制の元では、天皇というのも日本国民統合の象徴であり、ここでの「大君(おおきみ)」というのも、そのような、日本国民の統合の象徴としての「大君(おおきみ)」と、このように再解釈することが出来るだろう。字面道りに、天皇制の復活を期待し、天皇主権を読み込むのは、(そういう立場もあるのだろうが)現実問題として現代においては、甚だしく時代錯誤である。

そのように慎重に二つの問題をクリアすれば、この「海行かば」は、戦没者の慰霊と鎮魂を祈る歌として、現代に蘇らせることが出来るだろう。(もちろん、そういったことを聞き手に理解されずにただこの歌を歌うだけでは、おかしなレッテルを貼られるだけである。)

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アナクロニズム(時代錯誤)

よく語られるように戦前の日本では、天皇の神格化が図られ、神道が宗教以前の存在とされて重要視されていた。
そのため、現在でも靖国神社への閣僚の公式参拝や、神道への国家の介入(保護)が中韓はじめ周辺各国の関心事項になっている。

しかし、天皇が神であるとか、靖国思想とかが、明治政府をしてわが国の対外進出(相手の国にとっては「対外侵略」)を招いたわけではない。

それは、明治政府が採用した国民統治の手段に過ぎないと考えるべきである。

国家が国民を動かし、操るやり方としては、戦前の政府が行った宗教に訴えるやり方以外の方法もあるわけであり、今後、政府が似たような行動を採る場合においては、さんざんに「種明かし」がなされてしまった「同じ手」を使うようなバレバレの手段は採らないはずである。 もっと、現代的に変容されて、それとはわからない「別な手段」に訴えるだろう。

そうしてみると政治家の靖国神社への公式参拝というものは、現代に於いては、純粋な慰霊としての意味があるぐらいで、公式参拝によって、戦前の日本を復活させようとしてもそれは、いささか現代という時代とギャップがありすぎて、一種の「アナクロニズム(時代錯誤)」に陥っていると評価できる。同様に、公式参拝を受けて批判を加える中韓はじめ周辺各国の拒否反応も、いわば「お約束」の反応の繰り返しと評することが出来るだろう。

つまり、この歌を歌うことで、当時の思想を蘇らせようとしても(個人的に当時の思想に賛意を示すのは各人の自由であるが)、それは現代という時代にはそぐわないということが出来るだろう。

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現代版、中世封建社会

さて、日本という国は、とにかく資源がない国であるから、「人間」が大切であるはずである。当たり前の話であるが、立派な才能ある人間を輩出することにこそ、この国の可能性がある。(このことは目新しいことでもなんでもなく、それこそ、幕末、明治維新の頃の歴史に名を残すような偉人なら誰でも頭の中にあった事柄である。)

立派な才能ある人間を作り出すためには、ある程度の競争社会も必要だろうけれど、現実は、派遣社員とか、格差社会とか、若者の就職難とか、現在の日本は、競争社会ではなく、「共食い」をしている・・日本人が日本人を食い潰しあって生きているようで、その様は、歴史で習った西欧の中世封建時代に似ている。

認識と思考枠組み(パラダイム)の意図的な操作

主観が客観を変える、とまでいうつもりはないけれど、我々に見えている「客観的な事実」というのも案外、主観の置き所により見え方が変わってくるものだ。同一事実といえども、それを見る角度によってさまざまに違って見えてくるものだ。
昔、国際政治学者の鴨武彦教授が、冷戦構造自体、米ソにとって、世界を二分し東西それぞれの世界を米国とソ連とで支配するに都合のよい構造であったと語っていた。

それと同じで、新聞や、報道で伝えられる世の中の政治状況や、経済状況というものは、案外、創り上げられた構造~支配者にとって都合のよい認識と思考枠組み(パラダイム)~にすぎないものであるかもしれない。

「諦めた人間は支配しやすい」といわれる。また、いわゆる知識人~知的水準の高い人間~は、頭の中でだけ物事を考えるので、極めて騙しやすいところがある(さらについでに言うと、彼らの自尊心が彼らの柔軟な思考を奪っている・・つまり、一度思い込んだらなかなか、立場、説を変えない愚かしさを彼らは持っている)。現在、テレビや、新聞で伝えられる政治、経済状況は、人をして「諦めさせる」に十分なものがあるが、もしかしたら、その状況は、「入念に仕組まれ」、「誰かには非常に都合がよい」状況であるかも知れない(一例として、たとえば「地球温暖化」というのは、事実なのであろうか?それを虚構であるとする立場も存在する。)。

不安を抱える人間はコントロールされやすい、テレビでなにかの凶悪事件が発生すると、住民のインタビューで口々に「不安」を語る。そのVTRが放送されて、全国のお茶の間に流れる。その番組を見た人はどう思うだろうか?・・その不安に乗じて、警察はじめ政府の側は、いろんな規制を敷き、個々人を把握しやすくする。そのわかりやすい極端な例が、街頭の防犯カメラである。携帯電話番号の固定もそうだし、ETCも同じようなものだ。

同じように、先行き不透明感というのも、人心を支配するのによい口実となる。少なくとも、人々に「希望」を与えるよりは、むしろ「不安」に落とし入れておいたほうが、コントロールしやすいのである。「不安」を上手く利用すれば、戦前のように天皇陛下は神であるとか、日本は神の国であるとかそういったことは一切持ち出さずに、現代において同じような支配の構造を作り出せるのである。

抽象的にいうならば、情報を操作し、社会の現状への認識と思考枠組み(パラダイム)を意図的に操作することによって、宗教的に国民を支配するのと等しい「効果」をもたらす構造を作り上げることが出来るのである。

現代において、かっての「神」、「宗教」に匹敵するものとは、

西欧の中世封建社会に於いては、ローマ・カトリック教会(宗教)が絶対的権力を握っていたそうである。ここ数年の社会情勢は、その中世封建社会に似ているように感じるのだが、それならば、ローマ・カトリック教会に相当するものはなんだろうか?・・(これまで論じてきたことから明らかなように、)情報を操作し、社会の現状への認識と思考枠組み(パラダイム)とを操作している連中である。

再論するが、中世に於いては、人民を支配するに「神」という概念を持ってきたが、現代に於いては、もはや「神」に頼らずに、情報の操作と、社会の現状への認識と思考枠組み(パラダイム)の操作という方法で、「神」、および、「宗教(中世の西欧におけるローマ・カトリック教会)」と同じ効果をもたらすことが出来るのである。

(脱線するが逆説的に言うならば、西欧の中世に於いては、情報の操作と、社会の現状への認識と思考枠組み(パラダイム)を提示していたのが、ローマ・カトリック教会であったと言うことも出来るだろう。具体的なその内容というのは、要するにプラトン的なキリスト教の閉鎖的世界観である。)

・・と、以上のように考えると、この「海行かば」という曲が、「かって担っていた役割の文脈(つまり、宗教的な国民支配の手段として)」において今後歌われるということはもうないと見てよいだろう(個人的な回顧は別にして)。けだし、その宗教的なアプローチは上述したように、もやは「使えない」からだ。むしろ、いつの日か、この歌がかっての文脈でまた歌われ始めたときは、「(われわれは)歴史から何も学んでいない愚かしい国民である。」ということになるだろう。

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慰霊、そして鎮魂の歌として現代に歌われる価値がある

この歌は、「戦意高揚」のために、昭和18年に文部省により制定され準国歌として扱われ、出征兵士を見送るときや、玉砕を伝える大本営発表の際に流されたそうである。この歌の「戦意高揚」としての歴史的な役割は終わっているのだろう。形式的には、終戦とともにその役割は終了し、実質的には、天皇が神であるとか、靖国思想といった宗教的な国民支配のアプローチが終焉を迎えるとともにこの歌の「戦意高揚の役割」も終わったものと言えるだろう。

残されたこの歌の役割、現代におけるこの歌の価値は、「慰霊と、鎮魂」にこそ見出せるだろう。(上述したように)現代においてこの歌を歌うことには、もはや、さほどの「危険」はない。太平洋戦争のことを記憶にとどめ、慰霊と鎮魂のために、この歌はもうすこし日のあたるところで歌われてもよいはずだと考える。

「海行かば、」~この歌に託された後世に生きる者へのメッセージ

さて、いろいろ論じてきたが、この歌は、21世紀に生きる我々にとって、もはや何の関係のない、無視されてよい、どうでもよい歌ではない。あの「戦艦大和ノ最後」と同じく、日本再建のための捨石になろうとした先人たちの思いが込められている歌である。聴く耳を持つものにはそれが判る筈である。

VTRに写る彼らが歌ったと同じ歌を歌い、わが身をその立場に置き換え、彼らの胸中を察し、彼らが身を捨ててまで守ろうとした行為に敬意を払い、彼らの魂の安らかなること祈る。心情を理解し、それに近づこうとするその過程で、私たちはVTRの中の彼らを、「体現」することが出来る。 彼らが私たちの心の中に生きてこそ、慰霊となり、鎮魂となるのである。

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参考

ドイツの現状1(ネオナチ)

吉田満著「戦艦大和ノ最期」その真実と虚構

信時 潔 研究ガイド

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