競技志向の強いトレイルランナーの思考方法にファシズムを感じることについて、

登山者、ハイカーとの共存は可能か?

最近になって諦めたことがひとつあって、それは競技性のないトレイルランニングを力説しようとすること、つまり、今のトレイルランナーはレース参加と密接不可分であることを素直に認めることにしたのである。・・その上でモノを考えると、レース参加を前提にしたトレイルランナーの心理傾向が読めるようになったのである。

では、このレース参加を前提としたトレイルランナーは、登山者や、ハイカーとの共存が可能であろうか?

答えは NO である。

足の速さに重要な価値基準を置くトレイルランナーは、自然を味わうことを目的とする登山者やハイカーと基本的価値観を共有し得ない。
自然を堪能することが登山者やハイカーの第一の入山目的であるが、トレイルランナーの場合は、あるいは、レースの試走の為、またあるいは、レースのトレーニングの為、レースに備えて長距離を走って身体を慣らす為、の入山目的が主であり、自然を堪能するという目的は二番手、三番手以降の副次的な目的である。

また、そもそも、トレイル仲間相互の連帯意識が強いため、登山者やハイカーは言ってみれば「部外者」扱いを受けるのである。
彼らは山の中で、トレイルランナーと出会って一緒に経験したどこかのレース談義に花を咲かせるのを好み、ハイカーと、日本100名山に登ったとか言う四方山話をするのを好まない・・というか、そもそもレースのある山しか行かないし、100名山とか興味もないし・・(苦笑)。

旧きよき山登りを知る登山者に言わせればトレイルランナーは山の新参者の、迷惑な連中と評されるだろう・・。

トレイルランナーの思考方法にファシズムを感じることについて

トレイルレースとは、それを共同体験することによってトレイルランナー相互の親睦を深め、連帯感を強めて、精神的な一体感を醸造する場、同一物への帰属意識を高める場。宗教的秘密結社が行う宗教的儀式に似たような性格をもっている。

ハコネ50キロのレースが終わったにもかかわらず、翌年に同一コースを走ってみたり、他にアピールする目的で何がしかのデモンストレーションを行うのは他の同志であるトレイルランナーへの精神的連帯を求めるメッセージであると解釈できる。

このようにトレイルランナーの一部には初期の宗教性、ないし精神的ファシズムの兆候が見られる。

トレイルランナーの熱狂的性格

お祭りで、お神輿が繰り出して多くの人が半纏を着てお神輿を担いでも、そういうのに参加せず、脇で静かに見ている人、性格的に騒ぐのが嫌いな人間もいる。その一方で、いわゆるお祭り好きな人もいて、地元のお祭りでは物足りず、近隣のお祭りまで足を伸ばす熱狂的な人もいる。

まさに人それぞれであるが、トレイルレースに参加している人間は、タイプでいうならば、お祭り好きな人間と言えるだろう。
更に考えると、もともと、ある程度性格的に「興奮」を求め、「熱狂」を求める個々人が、トレイルレースというお祭り騒ぎの場を「共有」することで相互に刺激し助長し合って、ますます、その熱狂しやすい性格を高めていると評することも出来る(トレイルレースの相互助長作用)。

まとめ

そもそもレースは他人あってのもので、自分ひとりではレースは出来ない。

現在流行っているトレイルランニングは、レースあってのトレイルランニングであるので他人あってのトレイルランナーである。
常に他者を求め、連帯感や、相互刺激作用に依存し、仲間と刺激しあって肉体的、精神的興奮を楽しむ、そんな風に自分ひとりでは自己完結し得ないトレイルランナーと言う存在は精神的に独立していない、また人格的に弱い存在であると評されよう。

レースあってのトレイルランナーにとって、トレイルレースとはまさにトレイルランナーが仲間とともにトレイルランナーと化す、現代版 秘蹟 Sacramentum  であると言えるだろう。

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