自由な発想と、自由な価値観

私は、一応、登山が趣味ということにしてありますが、それは、そういう風にしておいたほうがとりあえず折り合いもよく落ち着きがよいからです。

南北アルプスや八ヶ岳に出かけるのが「登山」だと考えている、古典的な、旧態依然で、ある意味絶滅危惧種の(?)登山家の方に言わせると、私が奥秩父あたりでやっていることは「たいした登山ではない。」との評価を受けるでしょうが、その場合は、「・・実は私は、登山家ではないのです。」と言ってスルーすることにしています。

何が言いたいかというと、・・あまり旧来の登山観にはまりたくはない。もっと斬新で自由な登山をしたい。旧い物の見方をしている人たちから、趣味を通じて私の人格、能力を決め付けられたくはない、対等な人格者として扱われたいということです。
旧態依然の登山家達は、自分たちの価値尺度でしか物を見ようとしません・・。で、価値尺度にあわない者は、山を理解しない者だ、山の怖さを知らないヤツだ、とかなんだとかレッテルをつけて見下す訳です。彼らがトレイルランナーを見る視線もきっと同じでしょう。

そういったいわば古典的な登山の価値尺度を私は共有しておらず、むしろ、彼ら古い登山家の価値観を、大変な桎梏に感じます。

柔軟な発想を持っていたので、トレイルランニングについてもあれやこれや書けたわけで、もし岩登りオンリーの頭だったら、ハセツネに関してもあれやこれや書き綴ることは出来なかったことでしょう。
(ちなみにハセツネ関連記事については、登山の知識と経験のみならず、ランニングの知識や、栄養学的な知識、身体の生理的な変化に対する知識と経験、果ては軍隊的タクティカルな発想?まで持ち出して書いています。)

それでも、時々、昔ながらの頭の固い登山家の方の「存在や、気配」を感じています、しかも、私と同世代ぐらいの登山者の中にもそういった発想をもっている人がいることを言葉の端々から感じて残念な気持ちになったりします。

そういった人たちに言わせると「なんだあれは?理解できない!」ということになるのでしょうが、まぁ・・奥多摩、奥秩父は、私のホームグランドなんで勝手気ままな私の気分転換さ、とばかり開き直って私なりのスタイルで自由に山に入っております。

しばらくご無沙汰にしている、南北アルプスや、八ヶ岳あたりでも、近い将来、多分同じスタイルで山に入ることになりましょう。

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ところで、その一方、実は最近、そういった遠くの、時間と金がかかる山々へ出かけることの「価値」にすこし疑問をもちつつあります。

同じ時間とお金を読書や旅行につぎ込んだり、あるいはほかの趣味に回すと、もっといろんなことが見えるのではないか?
あるいは山に行くにしてもヨーロッパアルプスや、ヒマラヤへトレッキングに行ったほうが、標高も高いし、気分転換になるのではないか?

・・お約束のように、暗黙の前提で北アルプスや、南アルプス、八ヶ岳なんかに時間と金をつぎ込むことにどれほどの「価値」があるのか・・。

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登山という趣味・趣向自体ひとつの自己発現の形態に過ぎないと考えます。
世の中には、ほかにもいろいろな趣味・趣向があります、柔道、空手、合気道といった武道や、ランニング、サッカー、野球、テニス、はたまた華道や、茶道など・・。
ひとつの「枠」に自分を無理やり押し込むのは、私には無理が過ぎるようです。

登山は、ひとつの趣味なのですから、それに囚われすぎると逆に視野を狭めてしまいます。
視野を広げる分にはよいのですが、視野を狭める作用をするときは、むしろそのような趣味からは離れることが大切だと考えます。

ここでは登山について書きましたが、トレイルランについても同じことがあてはまるはずです。

もっとも、トレイルラン自体は自由な発想と自由な価値観に基づくスポーツだと考えるのですが、この先、頭の固い連中が出てきて、偏屈なトレイルランニングの価値観を作り上げ、人に押し付けなければよいが・・、とすこし心配しております。

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