マトヴェーエフ博士のインタビューを読んで、

Training Journal 2007年4月号 に 旧ソビエト時代から国家プロジェクトとしてのスポーツトレーニングに携わってきた研究家マトヴェーエフ博士のインタビュー記事が掲載されていた(魚住廣信氏のインタビューで同誌の連載記事形式)。

この記事で印象に残ったのは、博士が雑談的に語った「国家の威信にかけて記録を目指すスポーツ」と、「商業化されたサーカス(としてのスポーツ)」と言う考えだった。
ロシアでは、ソビエト連邦の崩壊によって、後者の「商業化されたサーカス」がさかんとなり、前者の立場は一時期衰退気味であったとのこと。(詳細については、同誌の記事参照のこと)

言うまでもなく、わが国で最近流行っているトレイルレースは、後者の商業化されたサーカスとしてのトレイルレース大会である(ほぼ間違いがあるまい)。

このサーカス(言ってみれば見世物)と言う言葉に違和感があるのなら、アトラクションに置き換えても良いし、一般市民参加型のサーカス(アトラクション)と置き換えると理解しやすいだろう。

私の立場であるが、商業化されたサーカスとしてのトレイルレース大会には全く興味がない。何回も書いて来たように、トレイルランはレースがなくても楽しめると言うのが私のおおもとの立場である。(エントリー料を5000円払って、半日潰すのならば、エントリー料をガソリン代にかえて、同じ時間ではるかに自然を堪能できる所があるのを私は知っているから・・。)

だから、僕のトレイルレース、とりわけ山耐に対する立場は、前者の、「国家の威信にかけて記録を目指すスポーツ」として取り組む立場に極めて近いと考える。

自然保護の観点や、山耐の経緯、最近の商業主義化を問題として取り上げて、いろいろ山耐を批判してきたその一方で、記録を目指してあれこれこのレースを分析し、速さを求めてあれこれと模索を続けて考えてきたのは、そういう姿勢があったからだと思っている。(要するにサーカスとしてのハセツネならば、私は一切関与せずに、分析も行わず、邪魔者扱いしてさっさと潰してしまおうと、関係諸機関に働きかけていただろうかもしれない。)

マトヴェーエフ博士は更にインタビューにて、商業主義は多段階な○○カップ、のような大会を多数開催し、参加する選手は、記録を追及するよりも、観衆を満足させる見世物を演出するように求められる。・・と続ける(詳細は同誌の記事参照のこと)。

わが国でも、来年は、多数の新しいトレイルレース大会が、各地で開催されるようであり、有名な選手は、それこそ引っ張りだこであろう。

されど、たくさんのレースに出るとそれだけ怪我や故障の危険が増加するわけであるし、疲労の蓄積によりベストな状況でないにもかかわらずレースに出てそこそこの成績(4位とか、5位とかとりあえず入賞できる成績)に収まる、というのは、サーカスに出るアスリートとしてならば許されることなのかも知れないが、記録を求めるアスリートがやるべきことではあるまい。

有名選手はもとより、自己ベストを求める一般選手であっても、問題状況は同じである。すなわち、アスリートとしての自分をどう位置づけるか? である。

自分をサーカスに出るアスリートとして理解するのならば、たくさんのサーカスに出てそこそこのタイムを出してせいぜいレースを楽しめばよいであろう。

そうではなく、自分を真剣に記録を求めるアスリートであると理解するのであるならば、数年の期間をかけて、熟慮されたトレーニングプログラムをこなし、目標とする大会にベストを出せるように自分の体力をピークに持ってゆけるようなレース・スケジュールを組むべきであろう。

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参考 
平成スポーツトレーナー専門学校 校長 魚住廣信氏 の公式ホームページ

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