☆ 「登山の自由」と「トレイルランナー」の従順さ~トランスジャパンアルプスレース雑感

「甲武相山の旅」にて、2008年8月9日に書いた記事です。個人的にはかなり思い入れのある好きな記事です。

以前書いたことであるが、登山は自由なものであって、・・というよりも登山をやろうとする人は、自由を追い求めて、登山を始めた人がほとんどだと思う。

ローツエ南壁で死んでしまった当時ラインホルト・メスナーに匹敵する実力ある登山家 ポーランドのイエジ・ククチカは、6ミリザイルしか使わなかったそうだ、6ミリザイルに、命を託し、そこに自由を見出していたのかもしれない。

もっとも、自由といっても最低限のマナーはある。ゴミを捨てないこと、山林や動植物を大切にすること、細かいことでは、登り優先だとか、山の挨拶などなど・・。

でも、その束縛は少なくって究極的には、自分の実力以上の山に入って、山で遭難死してしまうことさえも山の自由のひとつであろう。

トレイルランニングも、山登りの一形態と思うから、トレイルランニングも自由であるべきであろう。(注 これは私の以前の考え方、いまは、競技スポーツとしてのトレイルランは、登山ではない、と考えています。) 
もっとも、トレイルランニングには競技大会がつきもので、競技大会には、いろんな規則が必要になる。

でも、私には、そんな競技会は、自由への桎梏以外の何者でもないと思える。
競技会に参加するトレイルランナーは、「従順」だなって感じる。

トランスジャパンについては、ルートを引くにしても、富山湾と、駿河湾を結ぶラインは、大会規定のルート以外にもたくさん考えられよう。
山にしても、私に言わせると、中央アルプスは、省略しても良いから、八ヶ岳を入れたほうが良いとか、色々いいたくなる。

競技会に参加するトレイルランナーは、従順だと書いたが、視点を変えて、実は彼らはそれほど、山に自由を求めていないのかもしれないと考えることもできる。

・・だとしたら、彼らは、そんなに山を愛するものではないといえよう。
彼らが愛するのは、山そのものではなくって「山を舞台にしたレース」である。

以前、山と渓谷のクロニクルで、積雪期の南アルプスを一月以上かけて、テントや食料やら50キロ以上背負って単独で全山歩くといった紀行があった。

この人は、そういった行為をレースとかに関係なく、自分でやってみたくって、挑戦したくって実践されたのである。

そういう視点から見ると、トランスジャパンに参加される選手は、(自発的にではなくこのような大会があってはじめて日本縦断を試みようとしたかたがほとんどであると思われるので)レースという大会に依存している点で、酷な表現であるが主体性において、「見劣り」がする。

極端な話し、2年後に、もしこのレースが開催されないと仮定しよう、それでも、自発的に日本縦断に挑戦してみよう!という方はどのくらい現れるだろうか?

山登りはもっと自由なものだ、トレイルランニングが山にレースを持ち込んだのはまだ、容認できるが、レースを通してしか、山を考えることができない、レース主催者の引いたラインの枠組みでしか、山と向き合えない若者を生み出すことになったとしたら、悲しむべきことだと思う。

山は自由なものだ。日常性の束縛から解放される・・。私にとって山の本質はそこにある。そう、私にとって、山は一種の「解放区」となっている。

レースという枠組み、競技といった形式を通じてしか、山と向き合えない者は、もっと、自分自身の考えを自由なものへと解放することを知るべきだろう。

山岳というものは、レースよりも遥かに豊かなものを貴方に与えてくれると思いますよ・・。

Advertisements

Kommentare sind geschlossen.

%d Bloggern gefällt das: