競技スポーツとしてのトレイルランの一考察

フルマラソンの42.195キロを適当にルート設定して走りきれば、マラソンランナーになれるか?というと、そうではないだろう。たとえば、皇居を8周少し走っても、その人は、マラソン完走者とは呼ばれない。

どこかのマラソン大会に出て、完走して初めて、フルマラソン完走者になれるわけで、自分で勝手に42.195キロ走っても、マラソンランナーとは呼ばれない。

仲間内から認められ、社会的?にマラソンランナーとして認められるためには、どこかのマラソン大会に出ること、完走することが必要条件であるようだ。

トレイルランも、現状を素直に見つめると、どこかの大会に出て、そこそこのいい成績を残すと、はじめて、仲間内や、社会的に? トレイルランナーとして認められるようだ。

また、トレイルランを最近始めた人の場合、どこそこの大会に出ることを念頭に、日々トレーニングしているという人がほとんどだろう。

こんな風に、トレイルランと、トレイルランニングの大会とは密接不可分だ。わが国では競技スポーツとしてのトレイルランが流行っているといえよう・・。

ところで、登山というのは、大会が無くっても登山として成立し、登山大会?に出場しなくっても、登山の経歴や、登ったルート、そのほかから登山家として認められる。もちろん、厳しいルートに登ることばかりが、登山家ではない。堀口行雄氏のように、一般道のみ歩くかたでも、その深い山野草への造詣、自然への理解から立派な登山家といえるだろう。

さらに、私に言わせると、登山というものは、きわめて内面的な要素が大きく、山への、自然への憧れや熱意が重要だ。ただ、物理的に、登山口から山頂の間を上下するだけでは登山家とは呼べない。

彼をその行為に向かわせる内面の動機こそが、登山家を登山家たらしめるのだ。

トレイルランの場合、物理的に登山口から、山頂を上下すれば、事足りる。もっと、コンパクトに云うならば、内面なんかなくっても、青梅のレースで永山公園から、高水山を往復すれば立派な「トレイルランナー」として社会的に認められるだろう。
(もっと容易に、トレイルランナーになりたければ、暮れのレースでみたけ山のケーブル下から、大塚山に登り、ロックガーデン、鍋割山・・御岳神社と12キロほど走ったり歩いたりすれば、即席のトレイルランナーが出来上がり、仲間内や社会的に?認知されるだろう。極めて粗っぽいハナシだけれど・・。)

トレイルランの内面性を埋め合わせるものとして、トレイル大会があり、①タイム、と②順位が、内面性の欠如を埋め合わせる作用をしている。

登山には、①タイムも、②順位もないが、内面性があり、それだけで、登山は充分に成立している。
(裏返すならば、山に登って内面的な充足感が得られるか否かが、登山家においてはきわめて重要な課題となる。ある山にどんなに速く登れたとしても、それだけでは、内面的な充足を得られない。高尾山から陣馬山間をどんなに速く歩けても、それで、登山家の内面が満たされたとは限らない。)

こんな風に書くと、トレイルランにも内面性があるよと反論されそうだけれども、トレイルランにおいて内面性は必要条件ではない。

トレイルランナーとして仲間内から、社会的に?認められるためには、内面性よりも、どこそこの大会に出て、走ること(別に完走しなくっても構わないが、よい①タイムと、②順位で完走すればそれに越したことはない)が絶対の必要条件である。

現在のトレイルランの有名な選手は、レースで勝って名を上げて来た人たちである。最近のトレイル雑誌の執筆者を見てみたまえ・・みなトレイルレースへ出場した経歴がある競技者である。
極論するならば、山に登ってこころみたされたか?といった内面的なテーマなど二の次、三の次・・レースでの①タイムと、②順位といった過去の(輝かしい)経歴こそが、彼らを「トレイルランナー」たらしめているのである。

一切レースに出ないで、有名になったトレイルランナーなどいない。

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