アフォリズム  挑戦なきものは去れ!

四月十三日、禿が原を訪ねてきて,こんな会話を交わす。

「ダウラギリを一年延期したいんですが・・・・」と禿が切り出す。

「なぜだ?」

「何だか自分の計画じゃないような気がして」

「なるほど。で、集めた金はどうするつもりだ」

「いったん返してほしいと思います」

「そんなことが簡単にできると思っているんだな」

こんな会話のあと、禿が言った。

「一年延期してくれれば・・ちゃんと登れると思います」

そのあと、だんまりを決め込む禿に、原が厳しく言った。

「禿、お前に言ってやる。いままで親も兄弟も友達も決して言ってくれなかったことをな。
お前は自分が傷つきたくないんだ。お前が必死になって考えていることは、自分のこと、ただそれだけだ。
お前はクライマーとしては抜群の素質があるが、人間としては未熟者なんだ」

長尾三郎 「精鋭たちの挽歌」 第二章 夢に生きる青春群像  94ページより抜粋

※原 真(はら まこと)  名古屋 高山研究所所長

※禿博信(かむろ ひろのぶ)  1981年 日本人としてはじめて単独、無酸素、アルパイン・スタイルで、ダウラギリⅠ峰に登頂したクライマー、のち1983年10月8日 イエティ同人隊として、エベレスト無酸素登頂を試み、登頂後、ビバーク中に滑落死

※ダウラギリⅠ峰(8167メートル)

※集めた金 遠征資金のこと

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小西政継さんの本に、厳しい山登りをやりたいのならば、実力のある山岳会を選ぶべきだと書いてあります。あの会には、人柄がよいひとがいるからとか、女の子がいるからとか・・。そういったことで、強い山岳会がありながら他の山岳会を選ぶのは、山の厳しさを知らないものの行いであるとのこと。

要は山に対する真剣な姿勢を持っているか否かということにあります。

いまのご時世、楽しいことはいくらでもあります。山に行かずとも、楽しみを求めるのなら、TDLにでも行けばいいのです。

去年(注 この記事は、甲武相山の旅からの転載ですので、第14回大会か?2006年頃)のハセツネで、挑戦したけれども、脚の故障から最初の関門でリタイアし、以来、どういうわけだか、ハセツネの試走に頑張る人をけなして、ご自身のブログでハセツネのことを屁(へ)セツネなどと揶揄し、あざ笑った人がいます。

自分がお金を払ってエントリーして、完走を目指した大会を、そんな風に誹謗するのは、ハセツネ・チャレンジャー失格でしょう。

世の中にはそんな人もいます。

私は、そういった人をいちいち、説得して、考えを改めさせて、引き止めようと頑張ることはしません。

見限って、切り捨てるのみです。

私が求めるのは、ザイルパートナーのように、一緒に高みに登ってくれる人です。しかも、義務感からではなく、自分自身がやりたいから、高みに至ろうと頑張る人です。
そうでもないと、危険な山登りはとても務まりません・・。

トレイルランニングでも同じことだと思います。

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なぜベストを尽くさないのか?~挑戦なき者は去れ!

私は、言葉使いは優しいし、文章使いも丁寧で、よく誤解を受ける。たいていの人間は、そんな私の物腰から、私が、あまい人間(甘っちょろい人間)であると推測する。

ところがさにあらず、私が丁寧語を使うのは、その人の人格を尊重するためであって、物腰が穏やかなのは、相手の方を尊重しようとする配慮に基づくものである。
・・登山、そのためのトレーニングに関しては、とっても厳しい、その厳しさを自分にだけ向けて、他の人には向けないだけの話である。私の身体を見れば判るけれど、傷だらけであるし、私の心は、とうに通常の人の心の範囲を超えてしまっている(←この部分、イマイチうまい表現が見当たらない・・苦笑い)。

私が今感じるのは、若いときにどんなに優れたアスリートであっても、トレーニングを怠れば、実力は退化するのであって、「過去の人」になりたくないのであればトレーニングを重ねる以外に方法はないこと。ようするに、私は過去の名声にあぐらする輩がまったく好きではないのだ。

同じように、そこそこの実力がある若い人が、ちょこっと練習して例えばハセツネで、12時間以内の成績をとろうとも、「たいしたことがない!」、ということ、例えば、50代、60代の方が、一生懸命死に物狂いで、血の汗を流しながら練習して、12時間以内の記録をとったほうがはるかに「価値」があるということ。

ようするに、私は、努力を重ねる人が好きで、心の底から応援したいと思う。逆に、才能のある人がチョろっと出てきて、アッサリ走っていい成績をとることをまったくもって評価しない。

(ここでは話をトレイルランに絞ります)一生懸命トレイルランニングに夢中になって何が悪いか?ある人は、トレイルランニングは「気分転換」だから、ある人は、家庭を持ち子供が出来て、趣味にそんなに打ち込めないから・・などとの理由をつけて、本気で走ろうとしない、本気でトレーニングしようとしない。

私は、そういう連中が好きではない。たとえ、週のうち、4時間ぐらいしか走る時間がなくっても、その時間だけは、思う存分、トレイルランニングに没頭するべきではないのか? 趣味よりも仕事が大切なのは当たり前ではある、しかし、誰だってそうなんだから、いまさら、仕事が、家庭がなどと言い出さないことだ・・。

私は、いい大人が夢中になって運動するのを心より応援したいと思う。訳知り顔に、気分転換ですから、とか、仕事が急がしくってなどと(いかにも思慮分別があるような)言い訳する輩はさほど好きにはなれない。

私は、愚かしいほどに、、夢中になって、トレーニングに励む人が好きで、そういう人たちを深く尊敬するし、そういう人の役に立ちたいと思う。

このブログで書いたハセツネ関連の記事も、才能はそんなにないけれど、ヤル気とガッツある人に捧げたいと思う。実力はあるけれど、心根がひねくれた人には捧げない。

もちろん、年齢、性別は不問である。・・そしてそういった人の中から、将来の優勝者が出てくれば、それは素晴らしい事だろう。

愚かしいほどに、ベストを尽くす事、そういう努力をしようとしない人間は、面と向かっては言わないけれど、好きではない。

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非凡な心

高貴な人間は自分のうちに強力者を認めて喜び、更に自分自らを統御しうる者を、語ることと黙ることを心得ているものを、悦びをもって自分に対して峻厳と苛酷を行うものを、また全ての峻厳と苛酷に敬意を表するものを尊敬する。

「ヴォータンはわが胸に苛酷な心を置きたり」と古いスカンジナビアの伝説に言われている。これは誇らしいヴィーキング族の魂から当然のこととして詠い出されたものである。この種の人間は、同情するように作られていない、ことこそを誇りとしている。

 F・W・Nietzsche 「善悪の彼岸」 第9章 高貴とは何か より抜粋引用

 ※ヴォータン・・オーディンともいいゲルマン民族の最高神
 ※ヴィーキング族・・八世紀から十一世紀にかけて海賊として北欧海岸を荒らしたノルマン族。

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「ごくごく普通の人でも、鍛錬すれば完走できる。」と昨年(注 2006年)のトランス・ジャパンアルプス・レース(TJAR)の完走者、高橋香さんはおっしゃられたそうです。

でも、「普通の人」は、なかなか鍛錬してもトランスジャパンを完走できないように思えます。やはり天性の何かがないと、厳しい鍛錬に心身がついてゆけないと思うのです。

心(こころ)の問題としても、「普通の人の心(常人レベルの人の心)」では、厳しい鍛錬を「支える」ことは出来ないでしょう。

トランス・ジャパンほど難易度を上げずとも、ことはハセツネでも同じことでしょう。

サブ12、サブ10はもちろん、各人なりのレベルにおける「完走」には、相当な「心の力」が必要になります。

常人のレベルを、すこし越えたところにハセツネの「完走」があるように思います(トランス・ジャパンの場合、相当超えたところに・・)。

そういった、常人レベルの運動をすこし越えた運動を支える心には、やはり、ちょっと違った、「非凡なところ(荒々しい心・たけだけしい心)」があると思うのです。

またそういった、常人をすこし越えた非凡さ(荒々しさ・たけだけしさ)がなければ、TJARやハセツネの完走(特にサブ10とか、サブ12レベル)はなし得ないでしょう。

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ところが、この非凡な心は、けして万能なものではなく、時には倦み疲れるものです。

自分の場合、厳しい登山や、トレーニングをすると、すこし気が荒れます。

冬場で、夜間、気温零下の中、ポロシャツ一枚で、ライトを照らして、日の出山で歩荷トレーニング、あるいはストレスがかかる危険な沢登りなんかをやると、間違いなくすこし気が荒れます。

そんなとき、私はなるべくレス・ストレス、穏やかなひと時を過ごすように心がけます。

トランス・ジャパンはもとより、ハセツネの71・5キロを12時間以内で走るにしても、10時間以内で走るにしても、あるいはもっともっと時間をかけるにしても、完走には、心と身体に相当なプレッシャーがかかっていることは間違いないです。

興奮状態のあとには、心身の疲労がやってきます。
常人を超えた非凡な心(荒々しい心・たけだけしい心)の持ち主であってもやはり、倦み疲れるものです。

山に入ると、心は高みを行き来する、下界に下りると、興奮状態の疲れが出る、精神の平穏こそ肝要  というわけです。

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こういう問題は、トレーニングや実際の登山で あまり自分を追い込まない、ほどほどにしか頑張らない方には発生しないかとも思われますが、わたしにとっては切実にして、大切な問題ですので、こうして記事にして残しておきます。

でもまた、これは人それぞれ、激しい運動の後は、温泉に入って、仲間とパーッと騒いで、お酒を飲んで、大いに食べて・・楽しい一時を過ごすことで、興奮状態から戻る・・という人も多いのでしょうね。

わたしなどは、いつも1人で山に入りますので、山から還ったあとも1人・・そういった「仲間と騒ぐ」式の気分転換は知らない身の上です。

(この記事、なかなかうまい表現が出来ず文章の一部削除・加筆修正を繰り返しております。意を汲み取っていただければ幸いです。)

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超人と「おしまいの人間」たち・・。

山の中で10年以上も孤独と知恵を愛したツアラトゥストラは、やがて山中で育んだ自らの教説を説こうと街に降りてきた、そこで、民衆を相手に超人の思想を説いたのが、この一説である。

いわゆる福祉国家が予定するような民衆像を批判したもので、それらの対極にあるものとして「超人」の思想・価値観が語られる。


ニーチェ  Also Sprach Zarathustra 第一部 序説 超人と「おしまいの人間」たち

この本に出会ったのは、高校二年生の秋・・以来、身体にジャストフィットするお気に入りのジャケットのように、親しんでおります。氷上英廣氏の翻訳は、読みやすく、またわかり易いものでした。 岩波文庫

なぜベストを尽くさないのか?という記事で、私はまるで、(ニーチェ流の表現をするならば)懺悔を求める説教師のように、真剣にトレーニングすべきことを書きましたが、今思えば、もっと別なやり方、すなわち、(サボっている人、実力があってもチャラチャラしている人などなどの方々は)相手にするまでもなく無視して(シカトして)切り捨ててゆくというやり方、もあったように思いました。

そして、(不真面目な連中を)無視して、無関心になると言うのは、厳しいことを書くよりも、もっと冷酷なやり方だと思います。

少なくとも批判的な文章を書くあいだは、まだ相手に対して期待する心が残っているのでしょう。もし相手に対して、もはや全然期待しなくなったら、それは、無視、無関心となって態度に出るのではないかなと思います。

今回は、言ってみれば優しい心で、「厳しいこと」を書きましたが、今後は、あのように書く事はせずに、鉄面皮を被って、無視して、わが道を行こうと思っています。
~サボっている人たちを、私は、飛び越してゆこうと思う。

もともと、このブログは、不偏不党、どんなに才能ある有名な方にも媚びない、また、どのような集団にも属さずに、群れをなさず、単独で、孤高の精神で、今までやってきたのだし、これからもそういうスタンスでやってゆこうと思っています。

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最後に、アスリートというのは現役を引退するとおしまいになるようですが、私の発想には、現役の観念も、引退の観念もありません・・。

武道・・剣道、空手、柔道とか、は生涯をかけてその道を追求してゆくものでしょう・・。そして、精神の修練があって、生活の規範となる、独特の価値観を持っている・・。

私はよく、ここのブログで自分はアスリートではないと書きますが、それはそういう意味です。私には、アスリートという発想よりも、○×道といった武道家の発想のほうに、親しみを覚えるのです。

アスリートという言葉には、西洋的な、あるいは現代的な響きがあって一面のカッコよさがありますが、他面、勝敗のみにこだわって精神性がないということを感じさせる言葉でもあります。

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