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挑 戦 無 き 者 は 去 れ !

Archiv für die Kategorie ‘競技志向のないトレイルランの薦め

トレイルレース不要論

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島国の日本では、平坦なところはほぼ開発し尽くされ、自然が多く残るところは山間部に限られています。自然は、山間部に追いやられてしまったともいえるでしょう。

言うまでもなく、自然は、いろんな恵みを与えてくれるものです。

山を愛すると言うことは、自然を愛すること、
山を理解することは、自然を理解すること、

山は、体調を整え、心神のバランスを回復させてくれる大切なところです。

都会で、心に傷を負った者も、山の自然が癒してくれるでしょう。

山の幸の楽しみ方、享受の仕方は、今まで既に出揃ったと考えます。

レースは、山では、受け入れられないと考えます。

およそレースをしようという発想は、心身が健康で、家族や周りのものにも心配事がなく、自分の将来についてもある程度、幸せな見通しを持っている、もちろん、ある程度散財できる資産もある・・ような人でなければ、持たない発想だと考えます。

生きるか死ぬか悩んでいて、山に何らかの「答え」を求めて山に入るような人は、山でレースをしようなどとは考えないものです。
また、日頃の激務で疲れ果てて、心神にストレスがたまりすぎて、山に快癒を求めてやってくる人も、さらにストレスを溜めることになるレースに出ようなどとは考えないでしょう。

健康で、それほど心配事をもたない人間が、何か楽しいことはないかなぁ??と参加するのがトレイルレースでしょう。

トレイルレースがなければ、気がおかしくなって、心神のバランスを保てません!!
・・なんていう人はこの世にいないと思いますよ。

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山には、生きる証を求めて山に入る人がいて、登山の楽しみを生きる糧にして山に入る人がいるわけであり、そういう人たちにとって、山は、まさに生きるために必要不可欠な存在なのですが、トレイルレースに参加する人たちは、それほど追い込まれた状況、背に腹を代えられない状況でレースをしているわけではないようです。

トレイルレースがなくって、人は生きて行けます。

でも登山がなくなると、生きて行けない人がたくさん出ます。

この単純な理屈から、トレイルレースは不要であると考えます。

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山の楽しみ方にあえて順番をつけるならば、山でレースをしようといった楽しみ方は、少なくとも上位に位置付けられるそれではなく、下から数える方が早いといった低位の楽しみ方であると考えます。

世の中には、トレイルレース以前に、いろんなことで悩んでいる人、心神をわずらっている人がたくさんいるのです。 自殺者3万人と聞きます、日々、死を考える人に無償で救いの手を差し伸べるのが、身近な自然であると考えます。

だから、レースに出られるあなた方は恵まれている、と思わなくてはなりませんね。

Geschrieben von silvaplauna

Juni 29, 2009 um 11:57

おかしい事を、何かおかしい?! と、 はっきり いえない状況は、それ自体おかしい。

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さて、ハセツネ30キロの申し込みが始まって、小銭がある人は、ブログとかでいろいろ文句を言うこともなく、遭難保険とかにも我先に申し込んだようですね。

不平不満を感じないのか? なにかおかしいと感じないのか? はたまた、(失礼ながら)考える頭がないのか? ^^;

ブログでおかしな批判めいたことを書いて、ハセツネ清掃登山にでも出かけて、宮地氏はじめ、スタッフに睨まれるのが、きっと嫌なのでしょうねぇ・・。そういう人は、正直申し上げて、日和見主義であり、弱い人間ですね。

わたしのつたない人生経験によると、そういう人とは、あまり深く付き合う必要はないようです。表面的に、テキトーに付き合っておればよろしい、当然、信頼できない・・

基本的に・・、「 おかしい事を、何かおかしい?! と、 はっきり いえない状況は、それ自体おかしいのですよ。 」
北朝鮮とか、言論統制がある国家ならば分かりますがね・・。

今回のハセツネ30Kに関して、腑に落ちないと感じつつもブログに一言も書かない方・・そういう人は、友人が傷つけられていても、見て見ぬ振りをするような・・人間なのだと思いますよ。どれほどトレイルレースのキャリアがある方でも、結局、ハセツネの親分である宮地氏には頭が上がらないのでしょうねぇ・・。

私にとっては、大方のトレイルランナーが頭が上がらないハセツネの親分といえども、どこのご出身だか分からないけれど、最近五日市にやってきてなにやらやっている方でしかありませんので、言いたいことは言わせてもらいますがね・・笑

結局、今回の遭難保険の問題は、 むむむ?さんの次のコメントが的を得ているでしょう。

No.662 Re: ハセツネは登山である。 投稿者:むむむ? 2009/01/24(Sat) 15:41:47
確かにハセツネのレースレベルで走り込むなら必要でしょう。しかし今回は初心者対象のレース。コースをみても、この山域でどれだけ遭難及びヘリ救助の事例があるんですか?JROは保険ではなく実費を相互扶助するものです。本チャンや雪山行く人と高尾山あたり走る人、民間ヘリ出動のリスクは雲泥の差でしょう。要は確率の問題。低リスクの人がたくさん加入すれば。そりゃ都岳連の山屋は助かるでしょうね。
本当なら走行時のケガによる入院通院に対応する障害保険に加入する方がよっぽど現実的だし、良心があるならまずこちらの加入を勧めると思いますが。

これほど、ピンポイント的に今回の遭難保険の問題点を指摘している文章はないですね。そういった意味で、記念に?ここに転載させていただこうと思います。

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さて、今思っているのは、「馬鹿をかまうと日が暮れる。」という諺。 
あるいはもっと知的にニーチェの言葉を借りて表現するならば、「認識に生きるものが、真理の水の中に入るのを厭うのは、真理が汚らわしいときではなく、真理が浅いときである。」・・ということ。

実際、私も、ハセツネの批判をするよりも、「山に行って来ました!」といった記事を書くほうが、遥かに楽しいわけだし、心もなごむわけです。

これからは、読み手の心がなごむような、記事を書きたいと思っています。
(もちろん、理不尽なことがまかりをおるのを見て見ぬ振りをするのではなくってね・・。)

Geschrieben von silvaplauna

Januar 24, 2009 um 2:12

生きるために山を走る!

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僕にとって山とは、日常生活のストレスを解消してくれる大切なところだ。
日々の精神的なストレスも山に入ると自然と治癒されてゆく。

もし、このような山々が、私の生活の一部になかったら、
僕はきっと、体調を崩し、精神的にもダメージを受けていただろうと思う。
今の歳まで生きてこられたかどうかもわからない。

 
要するに、まっとうな精神生活を送るために、山、自然が必要不可欠なのだ。
だから、僕は、レースになんか出なくっても、山を走る。

たとえ遅くとも構わない。
タイムよりも、生きてゆくためのほうがはるかに大切だから・・。

豊かな自然が持つ、治癒力と言うこと、それを僕は十分享受している。
享受しないと、まともに生きては行けないからである。

 

でも、トレイルレースに参加している人たちを傍から見ると、
生きてゆくためにレースに参加しているようには見えない。
レースに参加するのが楽しいから、参加しているように見える。

身体も、精神も、家族も、仕事も、なにもかも、そこそこ上手くいっていて
余暇にまわす金と暇がある人たちが、レースに参加しているように思える。

何か楽しいことを求めてレースに参加する人たち・・、僕はそういう人たちを応援しない。

 

自分が生きてゆくために、山を走らざるを得ない人
山を走らないと、心がおかしくなってしまうような人
そんな自分に似た人を 僕は応援する。

 

今の世の中には、生活に追われる若い人もたくさんいるはずだ。
山を歩いたり、走ったりすることには、お金はかからない。
だから、そういう人も、生きるのが嫌になったら、山に来て欲しいなと思う。

 

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 ハセツネ30K雑感

昨日も書きましたが、ハセツネ30キロレースに関する、全ての記事とデータは消去しました。
4月19日と言うのは、いわゆる新緑の時期であり、あきる野にはたくさんの行楽客がいらっしゃいます。そういった中で、レースを開催するのは、一般ハイカー、行楽客の迷惑となります。
林道を使うにしても、林道には、観光の自家用車も入り、サイクリングを楽しむ自転車乗りの方々や、オートバイを楽しむ方々が新緑を楽しむために入ります。

どういうルートが設定されるか詳細は不明ですが、沢筋には、自家用車でやってきて家族でバーベキュウを楽しむ人がたくさん来ます。登山道には、戸倉の山は標高が低く年配の方々でも、小学校低学年の児童でも何とか登れ楽しめると言うことで、たくさんのハイキング愛好家の方がいらっしゃいます。

登山道はもちろん、林道であってもトレイルランナーだけのものではありません。たとえ一日だけであっても、平日はともかく日曜日はかなりのかたが利用されます。トレイルランナーだけが専有するような状況があっては他の利用者の迷惑となります。

このレースには、地元の登山愛好家の一部の方も関係していると思いますが、当地の連休の状況を知っているのなら、レース開催には反対するべきだったでしょう。

私は、知り合いが何人か東京ハセツネクラブに加盟しているので、こういうことを書くのも心苦しいのですが、トレイルランナーの方も、秋川でバーベキュウを楽しまれる家族連れの方も、観光客である点で、なんら変わりがないと考えます。

両者は平等に取り扱われるべきです。トレイルレースがあるからと言って林道を閉鎖して、他の観光客を締め出すようなことがあれば、主催者そのほかこのレースに携わる方々は締め出された観光客の方々から、厳しい批判を受けなければなりません。 

わたしは、レースに際して、盆堀林道、刈寄林道、入山峠周辺の林道が一時的に閉鎖されて、せっかく当地に休暇を楽しみにいらした他の観光客の方々を、締め出すような状況にならないようにあらかじめここに警告しておきます。
(もちろん、それらの林道は、私も日常的に利用しますので、もし私が締め出されたら、そこにいるスタッフに罵声のひとつ二つを浴びせることになるでしょう。)

Geschrieben von silvaplauna

November 25, 2008 um 9:53

マトヴェーエフ博士のインタビューを読んで、

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Training Journal 2007年4月号 に 旧ソビエト時代から国家プロジェクトとしてのスポーツトレーニングに携わってきた研究家マトヴェーエフ博士のインタビュー記事が掲載されていた(魚住廣信氏のインタビューで同誌の連載記事形式)。

この記事で印象に残ったのは、博士が雑談的に語った「国家の威信にかけて記録を目指すスポーツ」と、「商業化されたサーカス(としてのスポーツ)」と言う考えだった。
ロシアでは、ソビエト連邦の崩壊によって、後者の「商業化されたサーカス」がさかんとなり、前者の立場は一時期衰退気味であったとのこと。(詳細については、同誌の記事参照のこと)

言うまでもなく、わが国で最近流行っているトレイルレースは、後者の商業化されたサーカスとしてのトレイルレース大会である(ほぼ間違いがあるまい)。

このサーカス(言ってみれば見世物)と言う言葉に違和感があるのなら、アトラクションに置き換えても良いし、一般市民参加型のサーカス(アトラクション)と置き換えると理解しやすいだろう。

私の立場であるが、商業化されたサーカスとしてのトレイルレース大会には全く興味がない。何回も書いて来たように、トレイルランはレースがなくても楽しめると言うのが私のおおもとの立場である。(エントリー料を5000円払って、半日潰すのならば、エントリー料をガソリン代にかえて、同じ時間ではるかに自然を堪能できる所があるのを私は知っているから・・。)

だから、僕のトレイルレース、とりわけ山耐に対する立場は、前者の、「国家の威信にかけて記録を目指すスポーツ」として取り組む立場に極めて近いと考える。

自然保護の観点や、山耐の経緯、最近の商業主義化を問題として取り上げて、いろいろ山耐を批判してきたその一方で、記録を目指してあれこれこのレースを分析し、速さを求めてあれこれと模索を続けて考えてきたのは、そういう姿勢があったからだと思っている。(要するにサーカスとしてのハセツネならば、私は一切関与せずに、分析も行わず、邪魔者扱いしてさっさと潰してしまおうと、関係諸機関に働きかけていただろうかもしれない。)

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マトヴェーエフ博士は更にインタビューにて、商業主義は多段階な○○カップ、のような大会を多数開催し、参加する選手は、記録を追及するよりも、観衆を満足させる見世物を演出するように求められる。・・と続ける(詳細は同誌の記事参照のこと)。

わが国でも、来年は、多数の新しいトレイルレース大会が、各地で開催されるようであり、有名な選手は、それこそ引っ張りだこであろう。

されど、たくさんのレースに出るとそれだけ怪我や故障の危険が増加するわけであるし、疲労の蓄積によりベストな状況でないにもかかわらずレースに出てそこそこの成績(4位とか、5位とかとりあえず入賞できる成績)に収まる、というのは、サーカスに出るアスリートとしてならば許されることなのかも知れないが、記録を求めるアスリートがやるべきことではあるまい。

有名選手はもとより、自己ベストを求める一般選手であっても、問題状況は同じである。すなわち、アスリートとしての自分をどう位置づけるか? である。

自分をサーカスに出るアスリートとして理解するのならば、たくさんのサーカスに出てそこそこのタイムを出してせいぜいレースを楽しめばよいであろう。

そうではなく、自分を真剣に記録を求めるアスリートであると理解するのであるならば、数年の期間をかけて、熟慮されたトレーニングプログラムをこなし、目標とする大会にベストを出せるように自分の体力をピークに持ってゆけるようなレース・スケジュールを組むべきであろう。

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参考 
平成スポーツトレーナー専門学校 校長 魚住廣信氏 の公式ホームページ

競技志向のないトレイルランの薦め

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懐かしいこの記事をすこし書き直しました。今、昔の記事にあれこれと手を加えています(既に30以上の記事を減らしました)。記事数を減らして、関連記事をひとつにまとめて読みやすくしようといった狙いです。
この作業が一段楽するまで新記事はお預けです。

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先日、富士登山競争があって、なんでもこのレース、ゴールの関門が厳しく4時間30分だとか、で、どこかのブログで読んだのですが、関門制限にひっかかった選手が、悔しいのか?泣いていたそうだ。
山のレースで、ゴール出来なかったくらいで泣くことはあるまいと思う。知り合いが遭難死してしまったというのなら泣くのも判るが、単に厳しい関門制限にひっかかったぐらいで泣きだす心情が私にはわからない・・。

わからないと言うべきか、むしろ、そこに「空恐ろしさ」を感じる。そこまでシリアスに取り組むのには、すこし問題があるように思う。

例えば、山耐で、シリアスな顔をして、思いっきり走るなどといった行為は、当然注意散漫となり他の登山者の迷惑になりかねない。(登山道の向こうから、真顔の人間がいきなり走ってきたら、誰だって恐怖心を抱くだろう。狂人が走ってきたのか?と思うかもしれない。)

レースという状況は、あたかも戦争のように人の心を変えてしまうのかもしれない。自分が出せる力以上のものを出そうとして、尋常の域を超えて夢中になり、ついに心不全とかで死んでしまうなどはこの類である。

レースという一種独特の場に参加する選手がもつ、アドレナリン全開の「一種異常な心理状態」というものを、私は少し理解できない。・・正確には、理解できないのではなくって、むしろ肌身にひしひしと感じて、嫌悪感すら感じてしまう。

もしかしたら・・それは日頃抑圧された凶暴性の発揮であるのかもしれない、だとしたら、レースに参加している人は、日頃のストレスを、レースで自分を解放することによって、解消しているのかもしれませんね。

レースに参加する選手が抱く高揚感(ハイな気分)というものは、格好のストレス解消の手段であるのかもしれない・・。

もちろん、私もストレスが溜まっていらいらした時は、怒鳴ったり、凶暴になったりするけれど、生命に危険な山では、凶暴な感情に身を任せるということはしない。そんなことを山でやったら、しっぺ返しが自分に来るから・・。

「レースとなると、競い合う他者がいて、自分ひとりでは、出せない力を出すことができる。」といった良く聞く言辞は、冷静に考えると、一種の集団心理、群集心理に近いものがあって、何かが危ない・・。ファッショ的な心理状況がそこにあるようにさえ、感じてしまう。

なぜレースをやるのか?なぜ競技形式なのか?

「レースをやると、客観的に自分の実力がわかるのでよい。」・・これはひとつの理由ではある。でも、自分の実力を知りたいのなら、年に一度、あるいは二年に一度、レースに参加すれば十分にその目的は達成できるのではあるまいか?
青梅高水→志賀野反→北丹沢→御嶽ウルトラ→奥武蔵→山耐→陣場→御岳・・といった風に、年間に7から8レースも消化しなければ自分の実力がわからないのであろうか?

レースには、恐らく、「高揚感(ハイな気分)」を味わえる「麻薬」の作用があるのであろう。

と、同時に、「みんなで何かをする」と言った群集心理、集団心理に身を任す「開放感」、「連帯感」、「集団に帰属する安堵感・安心感」さえも、そこにあるのかもしれない。

トランスジャパンにしても、もしレース形式でなかったら、参加しなかった選手が結構いるのではなかろうか?レースがあるから、やってみよう!と言った発想は、登山家の見地からしてみれば、他人の規律に乗ることを意味して、他者追随的であり、独創性、独自性に欠けるものと捉えることができるだろう。

本当に、日本縦貫してみたい人ならば、レースの枠にとらわれずに、自分の思いのままに挑戦して、実現してしまうだろう。

レースになると、仲間意識に依存することができ、また自らの行為の正当化、社会化(反社会的な行為ではないと言うこと)することが容易となる。上に書いたとおりの、、「みんなで何かをする」と言った群集心理、集団心理に身を任す「開放感」、「連帯感」、「集団に帰属する安堵感・安心感」さえも、そこにあるのかもしれない。

こんなところに、レースに参加する人の心理を読み取っている。

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(長い付け足しになってしまいました・・。ここから先が、昔の記事です・・。)

「トレイルランなんて俺はしらねーよ。」

等と仰られる新ハイの皆様、昔からカモシカ山行というのがありましたよね。
例えば鳳凰三山カモシカ山行とか、これを多少山域、ルートともに易しくしたものが「トレイルラン」といわれているスポーツ(だと思われます)。

小西政継さん風に言うならば、ナップサック背負ってのチョロチョロハイキング(略して 「チョロハイ」)に当たるものであろうと考えます。

チョロハイはともかく、カモシカ山行なら岳人なら一度ぐらいはやったことがあるはずです。

そういうことを踏まえると、トレイルランというのはマウンテンバイクや、クライミングのように、登山というジャンルの中のひとつだと考えます。カモシカ山行では今風ではないので、若い人にもうけがよい「トレイルラン」という名前が出てきたのでしょう。

比喩的にかきますと
かってのヒマラヤ登山の大衆化(万人向け化)したものがトレッキング
健脚の登山家が行っていたカモシカ山行の大衆化、現代化したものがトレイルラン
といえるかもしれません。

ただ、かってのカモシカ山行とすこし違うのは、トレイルランには所謂「ランナー(あるいはランナー志向の高い方々)」がでていると言うことです。そして、レース形式でタイムを競い、順位付けられ、競技化されつつあるといえましょう。雲取山登山競争しかり、長谷川恒男杯しかり・・。

要するに純粋に山を走る楽しみから、競い合い、順位付けへのベクトルの位相変化がなされています。

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登山を内面的な行為と理解するならば、このようなレース依存の発想、順位付けへの志向は「?」であり、見方を変えると「(内面性がないから)あさはか」であると烙印付けられます。

私が接した限りではランナーというのは人間的には闘争心に溢れるタイプで、人と競うのが好きなタイプ、かたや登山家というのはきわめて内面的な胸のうちに秘めた思いに駆られて山に向かうタイプであるようです。

この辺りから、ランナーが山屋に出会うと、このノロマめ!!となり、山屋がランナーに出会うと(皮肉を込めて)ナンダイあれは?男の癖にタイツなんか履いて、カッコつけやがって!!になります。
(極論すればですよ・・笑)

クライマーは岩壁、澤屋は渓谷、尾根歩き主体の登山家は尾根ときちんと「棲み分け」がなされていてあまり相互の衝突がなかったのですが、尾根歩き登山家とトレイルランナーとは活動の場が一緒ですので、もろに鉢合わせがあるのです。

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話をもとに戻しまして・・そのように競技化されつつある「トレイルラン」でありますが、先ほど述べた通り、やっている行為からするとトレイルランは広義の登山の一つであるということは間違いないでしょう。

またそもそも、山を走る行為はその昔修験道の行者の修行のひとつでもありました。それを踏まえると、近代的な登山よりも山駆けの思想は古いとさえいうことが出来ます。

(ただ、修験の行者にはゴールやタイムを競うという発想はなく、自己に荒行を課して自分を追い込んでより高き精神に持って行こうというモーメントに基づく修行の一環という点で違いますけれど・・。)

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○△×レースがあるからそれに向けて準備して、体調を整えるというのは登山家の発想ではなくランナーはじめ競技者の発想でしょう。
登山家はそういうことはしません、せいぜい、この冬に○○壁を登りたいからそれに備えてトレーニングしようとか、この冬は是非北アルプスに行きたいから今から厳しくトレーニングしておこうといった感じではないでしょうか?

レースは定められたルールの範囲内で「タイム」を競いますが、登山にはさほどルールはなくって、競争原理自体働きません。

そういうことを踏まえた上で・・。山を愛する皆様、自分が登山家であることを自負される皆様には、競技志向のない純粋なトレイルランをおすすめ致します。

いまさら書くまでもなく、軽装で山に入るのは軽快ですし、適度のランニングをすれば、心肺機能の向上に役立ちます。

普段、10キロから15キロの荷物を背負って山に登られている方が、せいぜい2キロぐらいの荷物(ウエストベルトポーチがおすすめ)で山に入ると、新しい発見があると思います。

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参考までに私が、奥多摩の山を走る時の格好です・・。

①履き古したジュギングシューズ、もしくは編み上げの安全靴・・タイムは落ちますが、捻挫予防、その他の怪我の防止に役立ちます。前者は軽快ですが、ゴミが入って靴下がかなり汚れます。

②60/40の長ズボン (最近流行のタイツなどは敬遠です)

③手袋(転倒時の保護)

要するに何も持たないのです。水、食料もレインコートも、帽子もなし。

このような格好で、富田新道、稲村岩尾根、鴨沢から雲取山、三木戸から鷹の巣山等よく走りました(主に秋~冬場)。雪が融ける4月以降は気温が上昇し飲み水が必要になるので、長距離は敬遠しています。

*****************************************************(もう一つ別の記事も付け加えておきます。))

トレイルランニングの今後のために・・競技性のないトレイルランニングの勧め

ハセツネや、北丹沢、ハコネ50k、奥武蔵などといった有名な大会や、有名な選手の皆さんの人気が、トレイルランニングブームの牽引役であったように考えます。
でもそろそろ、その人気も、一段落しているような気がしてきています。

もしかしたら、あと3年もすると、山でタイツを履いて走っていたりすると、

「あの人 いまだにトレランなんかやっているよ!」

と好奇の目で見られるようになっているかもしれません・・。
そうならないために、競技性のないトレイルランニングを勧めます。

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わたしの場合、登山のためのトレーニングのひとつとして軽装での山岳走を実践してきました。
(内容は、登山に直結する「尾根の駆け上がり」が主です。)

最近は、トレイルブームということで、山岳走も「トレイルランニング」なるネーミングがなされています、そして各地のトレイルランニング大会は大流行・・。

でも、大会がなくっても、これからの新緑の季節に、トレイルランニングスタイルで、山に入り、走ったり歩いたりすることは、自然とのふれあいができて楽しいものです。

もちろんタイツ姿に、帽子、トレイルシューズといった「お約束の」バリバリ・トレイルランニングスタイルでなくっても、動きやすく活動的なウェアならばトレランは楽しめます。

競技性のない、タイムを離れた純粋に野山を楽しむトレイルランニングが登山の新形態としてもっと広まればよいと思っています。

なんなれば大会がなくっても、また有名な選手がいなくっても、トレイルランニングという運動は、楽しめるものだと思うからです。

Geschrieben von silvaplauna

Juli 28, 2008 um 8:43